HOJ誕生までの物語 Vol.6

台湾での仕事をやめた烏山さんは、アイダさんと、生まれたばかりの娘を連れて、地元である長崎に戻りました。
「孤児院をつくる」という夢を実現するために、まずは孤児院で働くことにした烏山さんは、
五島列島の中のひとつ、福江島にある奥浦慈恵院という孤児院で働くことになりました。

この孤児院は当時非常に貧しかった島民のために、1880年にフランス人のカトリック司祭が始めた施設です。
福江島
「日本が貧しかったときは外国の人が日本のこどもを助けてくれていたんだ。
だから、今度は私たちの番なんだ。私がフィリピンで孤児院を開くのは、間違っていない。」

この施設で働きながら、烏山さんはさらに自分の夢への思いを強くしていきました。
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ほとんどのスタッフがシスターだったり、福祉系の学校出身である中で、
烏山さんの「元商社マン」という経歴は異質でした。

ですがそのことは逆にいい方向で作用したようです。烏山さんはこんなエピソードを語ってくれました。

「施設にいた一人のティーンエイジャーの子が、友達に借りた原付を無免許で乗り回して人身事故を起こすという
とんでもない事件が起きてしまい、シスターたちもスタッフたちも右往左往するばかりで、
事故を起こしてしまった子も自分はどうなってしまうのだろうと本当におびえてたんだけど、
こういうトラブルを解決するのは商社マン時代には慣れたものだったから、
警察やら保険ややら、もちろん事故にあった方ともきちんと連絡をとりあって、
その子が必要以上に責められることのないようにちゃんと交渉したんだよね。
そのときから、こどもたちの私に対する目が変わった気がするよ。」

もちろん大変なことばかりだったでしょうが、烏山さんなりに、「畑違いの自分だからこそできること」を模索していたのでしょう。

一方、アイダさんのほうはもっともっと大変だったようです。
台湾での豪奢な夢のような生活から、一転して、一人の友達もいない日本の田舎の島に連れて行かれたのですから無理はありません。
アイダさんは「それから私は一ヶ月間、口をきかなかったよ」と言っていました。

くみ取り式のトイレに幼い娘が落ちるんじゃないかと夜も眠れず、
家のすぐそばにお墓があったのも怖くて、エアコンもなかったのでバケツに氷を入れて扇風機の前に置いて夏の暑さをしのいだそうです。

しかしそれでもそこはさすがのアイダさん。
地元にたくさんの友達をつくり、烏山さん以上に地元に根を張っていきます。
今でもそのときにできた友達が、HOJの運営を支援しつづけてくれています。

烏山さんたちの五島での生活は2年続きました。
今では二人とも、五島の話はすごく嬉しそうに、いい思い出として語ってくれます。

さあ、いよいよ準備は整いました。フィリピンに行き、孤児院をつくるプロジェクトの始まりです!(つづく)