※前回に引き続き、アイダさんへのインタビューをまとめています。
私は結婚して「烏山アイダ」となり、日本で暮らすようになりました。
1986年1月、はじめて私が日本に降り立った日は、ちょうど雪でした。
いっちゃん(烏山さん)は日本の商社で働くようになっており、その関係で千葉県の行徳に住んでいました。
私もそこで一緒に暮らし、日本語学校に通い始めました。
当時のフィリピンでは「日本に行けば大金持ちになれる。日本人と結婚すれば一生安泰」とまことしやかに言われていましたが、
私が行徳で出会ったフィリピンの人たちは、決してそうとは思えない暮らしをしていました。
そんな彼らの憩いの場が、日曜に集まる教会です。
私はそんなみんなのために通訳をしたり、相談に乗ったりと、いわばソーシャルワーカーのような立場でした。
毎日とても忙しかったですが、とても充実した日々でした。
その後、いっちゃんの台湾への駐在が決まり、私たちは台湾へ引っ越しました。
そこでは、まさかと思うほどの豪邸が私たちを待っていました。高級コンドミニアム、と言うんでしょうか。
1フロアがすっかり私たちの家で、なんと、私たち専用のエレベーターがありました。
そこでも私たちは多くのフィリピンから来た労働者たちに出会いました。
日本に来ている人たち以上に彼らをとりまく境遇は厳しく、彼らは助けを必要としていました。
お互いに助け合いたいけれど、街にひとつの教会に集まれば、不法就労の人は捕まってしまいます。
そんなわけで、私たちの家が、彼らの集会所になりました。
毎週のようにパーティーを開き、悩みを聞き、本国から神父さんを招いてミサをしたこともありました。
私は満たされていました。豪邸で暮らし、同朋であるフィリピンのみんなに信頼され、尊敬されていたのですから。
小さなレストランを所有したりもして、趣味である料理の腕も生かすことができました。
さらに、結婚してから9年。待望のこどもを授かったのです!こんなに幸せなことがあるでしょうか。
私は、こんな暮らしがずっと続くことを信じていたのです。
でも、ある日、突然いっちゃんが言いました。「仕事をやめた。フィリピンで困っている人のために何かしたい。」
私は目の前が真っ暗になりました。
今だって台湾で困っている人たちのために、十分な活動をしているはずなのに、どうして?
仕事をやめてしまったら、お金がなくなってしまったら、困っている人のためにだって何もできないじゃない…。
だいいち、私たちの、生まれたばかりの赤ちゃんはどうするの?
言いたいことはたくさんありましたが、あまりのショックで私は何も言えませんでした。
それこそ、それから1ヶ月間、ほとんど私は口を開きませんでした。そのくらいショックだったんです。
こうして、私たち夫婦の怒涛のような人生は、大きく動き始めました。(つづく)