HOJ誕生までの物語 Vol.4

※今回からの話は視点を変えて、アイダさんへのインタビューをまとめています

私は、サンイシドロが、今よりもずっと小さくて、不便だった時代に生まれ、育ちました。
ダバオまでの道はまだ舗装されていなかったし、電話なんて役所にしかありません。
13人兄弟の私の家は、決して豊かとはいえませんでした。
幼いころに両親を亡くし、とても優秀だった長女が私たちの母親代わりとなってくれましたが、生活は本当にいつもギリギリでした。
空をときどき見上げては、通り過ぎる飛行機を見て、私もいつか飛行機に乗ってみたいと夢見ていました。

その姉がなんと、村の市長さんの息子と結婚することになり、私たちの生活はガラリと変わりました。
私は姉のこどもたちの教育係となる代わりにダバオの私立の大学に通わせてもらえることになったんです。

その後、父親の地盤を引き継ぎ、義兄が市長になった頃、私たちの村に日本の若者が出入りしているという話を聞きました。
第二次世界大戦の直接の被害者たちがまだ生きていた時代だったので、
当時のフィリピンでは日本という国の印象は決してよくありませんでした。
漠然と、何をしにきているんだろう、あやしいな、怖いな、と思っていました。
なので、義兄の家でたまに会うことがあっても、挨拶したりコーヒーを出したりする程度で、特に近づきはしませんでした。
その中の一人が、どうやら私にご執心だ、と周りから聞かされても、その場限りのことだろうとあまり気にしていませんでした。

大学を卒業した私は、もっと自分の可能性を試してみたくなり、マニラで仕事を探すことにしました。
でも、当時は「マニラで働くなんて、きっといかがわしい商売だろう?」というイメージが強かったので、まわり中のみんなが反対しました。
でも、私はその反対を押し切ってマニラに行きました。
周りの反対を押し切って行動するなんて、まるで誰かさんみたいですね。(笑)
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なかなかいい仕事に巡り合えずに苦労しましたが、ようやく正社員として雇ってくれる会社があって、
私のマニラの暮らしは安定してきました。そんな折、ダバオで数回会った例の日本人が、
マニラのJICAのオフィスに用があるといってマニラに来るたびに、私に会いに来るようになりました。

でも、私はどうせこの人は日本に帰ったら私のことなんか忘れるに違いない、と警戒していました。
回り中にそういう話がたくさんありましたからね。
デートと呼べるかどうかわかりませんが、2人で行く場所はいつも、教会のミサだけでした。(笑)

それでも彼は日本に戻ってからも頻繁に私に電話をかけてきて、会いたいと言ってきます。
仕事があるはずなのに、週末を利用して、本当に土日にマニラまで何度も会いに来る彼と、
何度も何度も一緒に教会に行くうちに、この人はちょっと他の日本人とは違うかもしれない、と私の心は傾いていきました。

そして私たちは、1985年に結婚しました。出会ってから5年目のことでした。

「日本人と結婚すれば大金持ちになって超幸せになれる」というイメージが今以上に強い時代でした。
私も、お金目当てだったわけでは決してありませんが、漠然とそういう「成功の人生」の予感にふるえていました。

その予感は、ある意味で正しく、ある意味で全然違っていたんですけどね…。(つづく)