「孤児院を作ろう」と思いたったものの、孤児院ってどんなものなのか、どうやったら作れるのか、
大学では農業を学び、協力隊後は商社で働いていた私には、見当もつきませんでした。
協力隊時代の友人たちや、神父をしている兄に相談してみましたが、
「素人がそんなことに手を出して、絶対うまくいくわけないからやめろ」
「設立資金はともかく、運営資金はどうするの?収入なしでどうやって生活するつもり?」
「悪いことは言わない、やめたほうがいいよ」
と、親身に思うこそからか、否定的な意見しかもらえませんでした。
まあ、考えてみれば当たり前ですよね。
しかし私の思いは熱くなっており、もう後戻りできないほどでした。
いろいろな人に相談しては断られるうち、そもそもなぜ、私はこんな思いを持つことになったんだろう?と思いました。
それが人に伝えられなければ、誰の協力も得られない気がしました。
協力隊でフィリピンに行って…
フィリピンの人と台湾で関わって…
フィリピンの友人が交通事故で死んでしまって…
フィリピン。そう、どうしてフィリピンなんだろう?
そもそも自分はどうして「協力隊」に参加しようと思ったのだろう?
そこに鍵があるのではないかと思いました。
私は長崎の出身で、こどもの頃から毎朝教会に連れていかれていました。
ある程度の歳になると毎朝神父さんの手伝いをするようになりました。
「毎週日曜日」じゃありません、「毎朝」です。
隠れキリシタンの末裔であるうちの一家にとって、それは起きたら歯を磨くように疑問の余地のない習慣だったんです。
しかしティーンエイジャーくらいになってくると、そういう単なる「習慣」には抵抗したくなります。
私の心にも、キリスト教、もっと言えば、そうやって毎朝集まって祈っている人たちに対しての反抗心のようなものが生まれました。
「この人たちは、毎朝集まって、祈ってるだけじゃないか。
聖書を読んでありがたがってるけど、それと全然関係のない仕事をして、普通に暮らしてるだけじゃないか」…と。
そんな時に、マザー・テレサを知りました。
インドで死にゆく人たちに寄り添う活動を始めた、あの人です。
私は「これだ」と思いました。
行動せずに、祈ってばかりいて何が愛だ。そんなのは本物じゃない。俺は本物を目指すんだ。
そう、その思いが私を駆り立てて、協力隊に赴かせたんです。
「見える行動で、見えない愛を表現する」という、HOJのモットーは、もうその時に産まれていたんです。
自分で自分の思いがはっきりすれば、その思いはさらに強いものになり、また、説得力を持ちます。
私はこの思いを神父である兄に、思い切りぶつけてみました。
私の本気を見て取った兄は、私に、長崎のはずれ、五島列島にあるシスターたちが運営している孤児院を紹介してくれました。
神父さんの紹介、ということで、私はそこで2年間の契約で雇ってもらえることになりました。
何の資格も経歴もないのに、今考えると、ものすごい特別扱いだったんだろうなと思います。
さあ、いよいよ道が開けてきました。私は意気揚々と会社に辞表を持っていきました。新しい人生の幕開けです。(つづく)