台湾でのある死刑囚との出会いで、私に「何かしなければ」という想いに駆り立てられました。
ですが、まだその「何か」が私にはわかりませんでした。
そんなとき、私にひとつの訃報が届きました。
協力隊時代にフィリピンで仲良くなった親友、アマドが交通事故で亡くなったというのです…。
青年海外協力隊は「技術移転」を目的としたプロジェクトなので、
必ず現地の同じ専門性を持ったリーダー格の若者と、コンビを組んで仕事をすることになります。
その相手を「カウンターパート」と呼ぶのですが、このカウンターパートとの相性の良さが、
協力隊時代を有意義なものにするか、我慢の連続ばかりにしてしまうかの、大きな分かれ道です。
私は現地の「バゴボ族」という民族の最後の酋長の息子だという男とコンビを組むことになりました。
彼は体が大きく、バイクや馬に乗ってどんな山の中にも入っていく豪傑でしたが、
それと同時にとても繊細な心の持ち主でもありました。
お酒と音楽が好きな私たちはすぐに意気投合しました。
一緒に山々を巡り、キャベツの種を植え、村をまわっては井戸を掘りました。
私には宿舎としてマティの役所のそばの家があてがわれたんですが、
そんな場所よりもうちに住めよ、と誘ってくれて、私は彼の家族と一緒に、電気のない山の中で暮らしました。
毎晩火を灯してはギターを弾いて一緒に歌って過ごしました。
今でも停電するたびに、あのときのことを思い出します。
彼のおかげで、私の協力隊時代は本当に充実したものになりました。
フィリピンでは長男には自分と同じ名前をつけて「Jr.」にする習慣があるんですが、
彼はなんと、長男が生まれたとき、私の名にちなんで、「サイモン・イツオ」という名をつけました。
サイモンというのは私の洗礼名です。
その彼が、若くしてあっけなく交通事故で命を落としてしまったことが、私にはショックでした。
そして、彼の幼いこどもたちのことが気にかかりました。彼には5人もこどもがいたのです。
しかも1人は、私と同じ名を持った子です。私の「何かしなければ」という想いの「何か」がこのとき決まりました。
フィリピンに戻って、彼のこどもたちを育てよう。
そうだ、孤児院をつくろう。
ハウスオブジョイが私の心の中に生まれた瞬間でした。(つづく)