HOJ誕生までの物語 vol.1

私がフィリピンに孤児院を作ろう、と思ったのは、台湾にいたときのことでした。

私は協力隊時代の海外生活経験を買われて就職した商社の駐在員として、台湾で6年ほど暮らしていました。
1980年代半ば、まだバブルの最後の時期でしたから、景気も良く、仕事と言えば接待ゴルフに接待飲み会。
毎日のように日本から来るお客さんとお酒を飲んで、宿舎として立派なマンションを与えられ、
見る人が見ればうらやむような生活をしていたわけです。

ですが、私はそんな暮らしに、あまり喜びを感じてはいませんでした。
そのころの私の喜びといえば、私たち夫婦を頼って相談に来てくれる、フィリピンからの出稼ぎ労働者たちとの交流でした。
会社に用意されたマンションは週末にはフィリピン人の巣窟になっていました。
悪い労働条件で働かされる彼らの慰めに、と、フィリピンの司教さんに手紙を書いて、
フィリピン人の神父さんを派遣してもらってミサを開いたりもしました。

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そんな中、ひとつの事件が起きました。フィリピン人労働者が、職場の上司を殺したというニュースです。
フィリピン人男性はすぐに捕まり、あっという間に死刑になることが決まってしまいました。

何か彼のためにできることはないか、と私は妻と一緒に考えました。
判決を覆すほどの力はありませんが、何か、彼のためにできることはないか、と。
でも、特別なことは何もできませんでした。
私たちにできたのはただ、獄中の彼を訪問する許可を得て会いに行き、話し相手になることだけでした。

でも、言葉も通じない裁判で有罪になって獄中で孤独に苦しむ彼は、
私たちに会ってフィリピンの言葉で話すことだけで、本当に喜んでくれました。
何もしてあげられなくてごめん、と言う私に、そんなことはない、本当に感謝していると言ってくれました。

私たちの交流は彼の刑が執行されるまで続きました。
そして、遺体の引き取り手がいない、ということで、私たちが引き取り、彼を埋葬する手はずを整えました。

遺体となった彼を見たときに私の中には、不思議な気持がこみあげてきました。
それは、悲しみや無力感のようなものではありません。
もちろん、そういう気持ちもありましたが、それとはまるで違う、むしろ逆の、喜びのような、達成感のような気持ちがあったんです。
それに気づいたとき、私は驚きました。この気持ちはなんだろう?なぜ私は喜んでいるのだろう?と。

そして、そのときに思ったのです。私は、これをやらなければだめだ。こういうことをやらなければだめなんだ、
この気持ちを味わうために、私は生きるしかないんだ、と。

そこから「孤児院」という発想に行きつくのには、もう少し時間がかかります。それはまた、別のお話です。(つづく)