ジュリアンは6歳のときにHOJにやってきました。
シングルマザーだった母親が新しい男と暮らすようになり、
長女のジュリアンを親戚の家に預けていなくなってしまいました。
しかしその家もこどもがたくさんいてジュリアンに愛情をそそぐ余裕はなく、
村長さんに相談したところ福祉局を紹介され、その流れでHOJに入ることになりました。
ジュリアンは少し喘息気味で、体があまり強くありませんでした。
同年代のジュヴィーやジョリーナとはすぐに仲良くなりましたが、
同じように走り回ったり泳ぎまわったりして遊ぶとすぐに熱を出してしまうので、
1人で絵を描いたり、でおままごとなどをして遊ぶことを好むようになりました。
そんなジュリアンに転機が訪れました。下の弟2人もHOJに入ってくることになったのです。
お母さんに新たにこどもが生まれて、前の夫との間に生まれた2人のこどもを
また親戚の家に預けて行ってしまい、親戚の方がその2人をHOJに連れてきたのです。
なんとも無責任な、ひどい話ですが、ジュリアンの喜びようは予想以上でした。
兄弟で入っている子が多い中で1人でいたことはすごく寂しかったんでしょう。
それから目に見えてジュリアンは朗らかで積極的になりました。
不思議なもので、喘息もあまり出なくなり、海や川でも駆け回って元気に遊べるようになりました。
その後、地道な調査の結果、ついにお母さんが見つかったのでHOJに連れてきました。
その時のことを私は忘れられません。
私は正直、彼女に対して腹を立てていました。
今さらどの面さげてこどもに会いに来るんだ、と思ったのです。
ですが、私が何か言う以上に象徴的なことが起こりました。
いつもは快活なジェレミーが、お母さんが近づくと大声で泣き出したのです。
ジェレミーからすれば「知らない人」だったのでしょう。
お母さんは、罪悪感と、悲しさと、愛しさが混じったような、なんとも複雑な顔をしていました。
ジェレミーは泣き続け、お母さんのほうを振り返ろうともしません。
とても気まずい空気が漂いました。
その時、ジュリアンが立ち上がって、お母さんに抱きつきました。
その瞬間、お母さんはジュリアンを抱きしめて「ごめんね、ごめんね」と泣き出しました。
ひとしきり泣いた後にお母さんは立ち上がり、ジェレミーを抱きしめました。
今度はジェレミーは泣きませんでした。
お母さんは「ゆるされた」のです。
ジュリアンは、こういう子です。困っている人、弱っている人、立場の低い人を決して放っておきません。
自分の感情よりも、相手の感情によりそって行動する子です。
子連れのビジターが来た時に、小さい子の相手を最後までずっとしているのは、いつもジュリアンです。
そんなジュリアンの心根は学校の先生たちにも伝わっているようで、
学校では「優しい子」と評判で、日本の道徳にあたる、こちらの「宗教」の授業ではいつも成績がトップクラスです。
また、絵の才能が開花しつつあり、学校で絵のコンテストの代表に選ばれました。
この3月、ついにジュリアンは小学校を卒業しました。6月からは中学生です。
持ち前のやさしさと、才能をこれからさらに伸ばしていってほしいと思います!
台湾でのある死刑囚との出会いで、私に「何かしなければ」という想いに駆り立てられました。
ですが、まだその「何か」が私にはわかりませんでした。
そんなとき、私にひとつの訃報が届きました。
協力隊時代にフィリピンで仲良くなった親友、アマドが交通事故で亡くなったというのです…。
青年海外協力隊は「技術移転」を目的としたプロジェクトなので、
必ず現地の同じ専門性を持ったリーダー格の若者と、コンビを組んで仕事をすることになります。
その相手を「カウンターパート」と呼ぶのですが、このカウンターパートとの相性の良さが、
協力隊時代を有意義なものにするか、我慢の連続ばかりにしてしまうかの、大きな分かれ道です。
私は現地の「バゴボ族」という民族の最後の酋長の息子だという男とコンビを組むことになりました。
彼は体が大きく、バイクや馬に乗ってどんな山の中にも入っていく豪傑でしたが、
それと同時にとても繊細な心の持ち主でもありました。
お酒と音楽が好きな私たちはすぐに意気投合しました。
一緒に山々を巡り、キャベツの種を植え、村をまわっては井戸を掘りました。
私には宿舎としてマティの役所のそばの家があてがわれたんですが、
そんな場所よりもうちに住めよ、と誘ってくれて、私は彼の家族と一緒に、電気のない山の中で暮らしました。
毎晩火を灯してはギターを弾いて一緒に歌って過ごしました。
今でも停電するたびに、あのときのことを思い出します。
彼のおかげで、私の協力隊時代は本当に充実したものになりました。
フィリピンでは長男には自分と同じ名前をつけて「Jr.」にする習慣があるんですが、
彼はなんと、長男が生まれたとき、私の名にちなんで、「サイモン・イツオ」という名をつけました。
サイモンというのは私の洗礼名です。
その彼が、若くしてあっけなく交通事故で命を落としてしまったことが、私にはショックでした。
そして、彼の幼いこどもたちのことが気にかかりました。彼には5人もこどもがいたのです。
しかも1人は、私と同じ名を持った子です。私の「何かしなければ」という想いの「何か」がこのとき決まりました。
フィリピンに戻って、彼のこどもたちを育てよう。
そうだ、孤児院をつくろう。
ハウスオブジョイが私の心の中に生まれた瞬間でした。(つづく)
リッキーは「約10歳」のときにHOJに来ました。
「約」というのは、だれも彼の本当の歳を、彼自身も含めて、知らなかったからです。
リッキーは姉のカテリンと共に、親戚だという男性の家で育てられていました。
しかし、その家の経済事情が逼迫してくるにしたがって、「なんで私がこの子たちまで育てなきゃいけないんだ」という感じで
あまり家庭の中で大事にされなくなり、学校に通わせてもらうこともなく暮らしていたところを、福祉局が保護しました。
こういう場合、普通なら「親戚なんだからあなたが責任を持って育てなさい」ということになるのですが、
今回は違いました。男性は、常識的に考えれば「親戚」ではなかったからです。
リッキーのお母さんをAさんとしましょう。AさんはBさんと結婚し、リッキーを生みましたが、すぐにBさんとは別れてしまいます。
そして、リッキーたちを連れてCさんと結婚し、こどもを設けました。リッキーの父親違いの妹にあたります。
しかしその後、またAさんは他の男性と暮らすようになり、リッキーたちをCさんに預けていなくなってしまいました。
その後、Cさんがリッキーたちを育てていましたが、ほどなくしてCさんは病気で亡くなってしまいます。
残されたこどもたちはCさんの弟であるDさんに引き取られました。このDさんというのが、前述の「親戚の男性」です。
CさんとAさんの間に生まれた子は、確かにDさんから見れば親戚です。
ですが、リッキーたちはDさんから見れば「亡くなったお兄さんの元妻の連れ子」です。
「親戚」の適用範囲がものすごく広いフィリピンにおいても、これは親戚とは言えません。
そんなわけで、お母さんが見つかるまで、ということでリッキーたちはHOJにやってきました。
来たばかりの頃のリッキーは、とてもシャイで、状況の変化にまごついている感じでしたが、
すぐに他の子たちと仲良くなり、少しずつそのやんちゃぶりを発揮していくようになりました。
前に住んでいた家でも放ったらかしにされていた時期が長かったせいか、集団のルールを守ることができず、
問題を起こすこともしばしばでしたが、小さい子たちに優しく、同年代の子たちとも楽しく遊び、
ビジターに甘えることも上手なリッキーは、HOJのムードメーカーとしてその立場を固めていきました。
忘れられないのはダバオに遠足で連れていってやったときのことです。
生まれて初めての「都会」にリッキーは本当に大はしゃぎでした。
怖くてエスカレーターに乗れずに1人で遠回りして階段を上ったり、
アイスクリームを食べ過ぎて車に酔ってしまったりと珍道中でしたが、
今でも「あの遠足は楽しかった!」と言っています。
もう一つ忘れられないエピソードは、夏休みのおこづかいの話です。
こどもたちに「夏休みの間、計画的に使うんだよ」と言って50ペソを渡したんです。
たいていの子は小さなお菓子などを買って、あとは年上の兄弟に預けて2週間くらいかけてつかっていたんですが、
なんとリッキーは、その日のうちに50ペソ全部を使って、お菓子を袋いっぱい買ったんです。
そして、驚いたことに、買ったお菓子を他の子たちに分けはじめました。私にまでくれようとしました。
「え?いっぱいあるんだからみんなに分けるに決まってるじゃん?」という感じでした。
何か、私たちが忘れてしまった大事な感覚を、リッキーは持っているような気がします。
自分の誕生日も知らなかったリッキーのために、HOJで誕生日を作ることになりました。
いつがいいかな?と相談して、「毎月だれかが誕生日なほうが楽しいよね」ということで、他に誕生日の子がいない3月を選びました。
初めての誕生日にはこどもたちがお小遣いを出し合って、カップケーキとロウソクを買ってきて祝いました。
小さな小さなケーキに大きなロウソクが突き刺さっていて、なんとも不恰好でしたが、こんなに素敵な誕生日のケーキは他にないと思いました。
そんなリッキーももうすぐ14歳。HOJの中では「大きい子」に入ります。
もうヤシの木に登って実を取って来ることだってできますし、薪割りの腕もあざやかなものです。
リッキーが素敵な誕生日をこれからも迎えていけるように、みなさん一緒に見守ってくださいね!
私がフィリピンに孤児院を作ろう、と思ったのは、台湾にいたときのことでした。
私は協力隊時代の海外生活経験を買われて就職した商社の駐在員として、台湾で6年ほど暮らしていました。
1980年代半ば、まだバブルの最後の時期でしたから、景気も良く、仕事と言えば接待ゴルフに接待飲み会。
毎日のように日本から来るお客さんとお酒を飲んで、宿舎として立派なマンションを与えられ、
見る人が見ればうらやむような生活をしていたわけです。
ですが、私はそんな暮らしに、あまり喜びを感じてはいませんでした。
そのころの私の喜びといえば、私たち夫婦を頼って相談に来てくれる、フィリピンからの出稼ぎ労働者たちとの交流でした。
会社に用意されたマンションは週末にはフィリピン人の巣窟になっていました。
悪い労働条件で働かされる彼らの慰めに、と、フィリピンの司教さんに手紙を書いて、
フィリピン人の神父さんを派遣してもらってミサを開いたりもしました。
そんな中、ひとつの事件が起きました。フィリピン人労働者が、職場の上司を殺したというニュースです。
フィリピン人男性はすぐに捕まり、あっという間に死刑になることが決まってしまいました。
何か彼のためにできることはないか、と私は妻と一緒に考えました。
判決を覆すほどの力はありませんが、何か、彼のためにできることはないか、と。
でも、特別なことは何もできませんでした。
私たちにできたのはただ、獄中の彼を訪問する許可を得て会いに行き、話し相手になることだけでした。
でも、言葉も通じない裁判で有罪になって獄中で孤独に苦しむ彼は、
私たちに会ってフィリピンの言葉で話すことだけで、本当に喜んでくれました。
何もしてあげられなくてごめん、と言う私に、そんなことはない、本当に感謝していると言ってくれました。
私たちの交流は彼の刑が執行されるまで続きました。
そして、遺体の引き取り手がいない、ということで、私たちが引き取り、彼を埋葬する手はずを整えました。
遺体となった彼を見たときに私の中には、不思議な気持がこみあげてきました。
それは、悲しみや無力感のようなものではありません。
もちろん、そういう気持ちもありましたが、それとはまるで違う、むしろ逆の、喜びのような、達成感のような気持ちがあったんです。
それに気づいたとき、私は驚きました。この気持ちはなんだろう?なぜ私は喜んでいるのだろう?と。
そして、そのときに思ったのです。私は、これをやらなければだめだ。こういうことをやらなければだめなんだ、
この気持ちを味わうために、私は生きるしかないんだ、と。
そこから「孤児院」という発想に行きつくのには、もう少し時間がかかります。それはまた、別のお話です。(つづく)