竹音楽隊動画も会員向けに公開!

2014年のHOJのプロジェクト、「竹音楽隊」の演奏動画です。

まずはフィリピンを代表する民俗舞踊「バンブーダンス」の曲、「ティニクリン」です。
この曲を竹でできた楽器だけで演奏する、というのは、フィリピンでも素晴らしい試みだと絶賛されています。
こどもたちの演奏はもちろん、ロジャーとミッチーのダンスにもご注目くださいね!

そしてこどもたちが選んだ曲が映画「となりのトトロ」のテーマ曲、「さんぽ」です。
日本のDVDを見て、日本から来るビジターから教わって、こどもたちはこの曲が大好きなんです。
映画のイメージに合わせてムービーも撮ってあります。
どのシーンがどの場面をイメージしているか、考えながら見るとまた面白いですよ!

最後に、このプロジェクト自体のドキュメンタリー動画です。
山に竹を切りに行くところから始まるこの物語を、ぜひみなさん一緒にお楽しみください!

今後もHOJでは、このような特別プロジェクトを定期的に行っていく予定です。
音楽、ダンスと来たので、次は絵です!どんなプロジェクトになるか、お楽しみに!



ロジャー×コウスケ ダンスプロジェクト

会員の皆様には無料で公開です!ぜひご覧ください!

コウスケくんやロジャーに感想を届けたい方は、ぜひsawamura@hoj.jpまでお寄せくださいね!
2人とも褒められて伸びるタイプですのでよろしくお願いします!(笑)



レナリンの物語

レナリンは2006年、10歳のときににHOJにやってきました。

レナリンの家族はダバオの町の中でも、最も貧しいと言われるエリアのひとつ、海際の海上住宅地に住んでいました。
お母さんは何度か事実上の結婚と離婚を繰り返しており、レナリンには5人の弟、妹たちがいました。
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レナリンは小学校1年生のときに交通事故に巻き込まれ、右手を失っていました。
事故を起こした人も保険などに入っているわけではないので、まともに治療費もはらってもらえず、
ひょっとすれば切断しなくてもよかったかもしれないケースだったそうです。

お母さんは不定期にお手伝いさんや洗濯の仕事をしていましたが、6人のこどもを養うにはギリギリの生活です。
なんとか4年生まで学校に通っていたレナリンを、来年度は学校に行かせられない、というくらいに生活は逼迫していました。

そんなときにようやく福祉局が動いてくれて、レナリンと、3歳と4歳の妹、弟がHOJにやってくることになりました。

その後、お母さんが多少安定した収入の得られる仕事を見つけたために、弟と妹は実家に戻りましたが、
レナリンは本人の強い意志で、HOJに残ることに決めました。
実家のある地域では、近所中の同年代のこどもが働かされているのが事実です。
そんな場所に戻ってしまったら勉強を続けられない、とレナリンは思ったのです。
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11歳にしてそう思うくらいにレナリンは勉強熱心で、成績優秀でした。
はじめは腕のことで特別支援学級に入ったレナリンですが、すぐに成績優秀者のクラスに移されました。
そこでも常に上位10位以内に入り続け、HOJの中でも他の子の勉強を手伝う「家庭教師」でした。

学校で才能を開花させていったレナリンは、学校教師にあこがれるようになりました。
しかし、学校の先生の働きぶりをずっと観察したうえで、本人なりに「片腕で教師をやるのはこの町では難しい」と判断し、
こんどはソーシャルワーカーになりたいと言うようになりました。
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しかしこれも、HOJのソーシャルワーカーから、ただでさえ資格を持っていても仕事を見つけるのは難しいという現実を教えられ、
「自分にもできることは何だろう?」と真剣に考えるようになりました。

そしてレナリンが選んだのが「日本語を勉強すること」です。
日本語をマスターして通訳や観光ガイドのような仕事につけば、身体的なハンディは関係ない、と考えたのです。

日本語を勉強するにはダバオの私立大学に行かなくてはいけません。普通の学校よりもずっと授業料が高いので、
夢をかなえるためには奨学生に選ばれる必要があります。

夢を持ったレナリンはそれまで以上にがんばり、高校卒業時の成績もとても優秀で学年で7位になりました!
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大学の募集している奨学金システムにも受かり、2013年からミンダナオ国際大学で日本語を勉強を始めました。
1年目にして日本語能力試験5級に合格、今年は4級にも合格して、年末には3級に挑戦します。
日本語能力試験3級に受かっていれば、レナリンが想定していた「通訳」や「ガイド」の仕事も引く手あまたです。
ここはぜひともがんばってほしいところですね。
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勉強だけでなく、大学の横にある小学校の生徒への家庭教師のアルバイトにも精を出しています。
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大学での勉強もあと1年半。夢に向かってがんばるレナリンを、みなさん応援してくださいね!



HOJ誕生までの物語 Vol.6

台湾での仕事をやめた烏山さんは、アイダさんと、生まれたばかりの娘を連れて、地元である長崎に戻りました。
「孤児院をつくる」という夢を実現するために、まずは孤児院で働くことにした烏山さんは、
五島列島の中のひとつ、福江島にある奥浦慈恵院という孤児院で働くことになりました。

この孤児院は当時非常に貧しかった島民のために、1880年にフランス人のカトリック司祭が始めた施設です。
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「日本が貧しかったときは外国の人が日本のこどもを助けてくれていたんだ。
だから、今度は私たちの番なんだ。私がフィリピンで孤児院を開くのは、間違っていない。」

この施設で働きながら、烏山さんはさらに自分の夢への思いを強くしていきました。
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ほとんどのスタッフがシスターだったり、福祉系の学校出身である中で、
烏山さんの「元商社マン」という経歴は異質でした。

ですがそのことは逆にいい方向で作用したようです。烏山さんはこんなエピソードを語ってくれました。

「施設にいた一人のティーンエイジャーの子が、友達に借りた原付を無免許で乗り回して人身事故を起こすという
とんでもない事件が起きてしまい、シスターたちもスタッフたちも右往左往するばかりで、
事故を起こしてしまった子も自分はどうなってしまうのだろうと本当におびえてたんだけど、
こういうトラブルを解決するのは商社マン時代には慣れたものだったから、
警察やら保険ややら、もちろん事故にあった方ともきちんと連絡をとりあって、
その子が必要以上に責められることのないようにちゃんと交渉したんだよね。
そのときから、こどもたちの私に対する目が変わった気がするよ。」

もちろん大変なことばかりだったでしょうが、烏山さんなりに、「畑違いの自分だからこそできること」を模索していたのでしょう。

一方、アイダさんのほうはもっともっと大変だったようです。
台湾での豪奢な夢のような生活から、一転して、一人の友達もいない日本の田舎の島に連れて行かれたのですから無理はありません。
アイダさんは「それから私は一ヶ月間、口をきかなかったよ」と言っていました。

くみ取り式のトイレに幼い娘が落ちるんじゃないかと夜も眠れず、
家のすぐそばにお墓があったのも怖くて、エアコンもなかったのでバケツに氷を入れて扇風機の前に置いて夏の暑さをしのいだそうです。

しかしそれでもそこはさすがのアイダさん。
地元にたくさんの友達をつくり、烏山さん以上に地元に根を張っていきます。
今でもそのときにできた友達が、HOJの運営を支援しつづけてくれています。

烏山さんたちの五島での生活は2年続きました。
今では二人とも、五島の話はすごく嬉しそうに、いい思い出として語ってくれます。

さあ、いよいよ準備は整いました。フィリピンに行き、孤児院をつくるプロジェクトの始まりです!(つづく)



ドドンの物語

ドドンは2007年にHOJにやってきました。
15歳でドドンを産んだお母さんは、親戚にドドンを預けて失踪してしまい。
たらいまわしにされたドドンは、曾祖母に育てられました。
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曾祖母はかなりの高齢でしたが、ドドンを育てるためにヤシの葉でホウキを作ってバスターミナルで売っていました。
でも、もちろんそんなのはたいした収入になりません。
ドドンが大きくなり、食べる量も増えてきた頃には養いきれなくなり、村長さんに相談した結果、ドドンはHOJに入ることになりました。

ドドンは曾祖母に引き取られる前にいた親戚の家で、遠い親戚の男に虐待を受けていました。
そのせいか、お手伝いなどはきちんとするんですが、非常にビクついた子で、泣き虫で、他の子と一緒に遊ぶのが苦手な子でした。
同年代の男の子がHOJにいなかったのが、さらにそれを拍車をかけていたような気もします。
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反面、学校での成績はいつもよく、一緒に幼稚園に通い始めたジョアン、インダイガマイ、クリスティーナガマイと比べても、
「お勉強はできる子」という印象でした。
また、小さい頃から目鼻立ちがしっかりしていて、ビジターたちからは「きっと将来はすごいハンサムになる」と期待されていました。
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成長するにつけ、確かに勉強はできるし、顔もかっこよくなっていきましたが、「一匹狼」気質はなかなか抜けません。
途中からは明らかに集団行動を嫌う感じになり、みんなでの行動ができないために、ダバオ遠足のたびに迷子になっていました。
本人的にはまったく道になんか迷っていないので「迷子」ではなく「1人行動した」だけなんですけどね。
引率する立場からしたら厄介きわまりない存在です。そんなわけで、日常生活でもスタッフに叱られることが増えていきました。

そんなドドンに2つの転機が訪れました。ひとつは、親戚の家との和解です。
ドドンを虐待していた男というのは、「遠い従姉の内縁の夫」だったんですが、その関係が切れて、いなくなったんです。
それを機に、ドドンは夏休みやクリスマス休暇に、親戚の家へ「里帰り」するようになったんです。
自分には、自分を受け入れてくれる親戚がいる、ということが、「自分だけ」だった彼の世界を溶かしていったのです。
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そして、もうひとつが、自分より小さい男の子たちがHOJに次々とやってきたことです。
長いこと「男の子の中では一番下」だったのが、「おにいちゃん」になったわけです。
頼られたり、教えてやったり、適度に威張ったり、仕切ったりすることから、ドドンは「一緒に遊ぶ」楽しさを感じるようになっていきます。
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そんなドドンの、忘れられないエピソードは、年末の大掃除のときのことです。
普段は掃除しない場所をきれいにしよう!と言ったら、ドドンはジルマーと一緒に、図書室の本を一冊ずつきれいにしはじめました。
すると1時間後、「コヤシン!こんなの見つけた!」と言って、1万円札を持ってきたんです。
誰かがヘソクリにしまったのを忘れたまま、HOJに寄付してしまったのでしょうか?
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一万円札の価値を知っているドドンが、それを自分のものにせず、ちゃんと届けてきたことがとても嬉しくて、私はそのことを褒めちぎってから
このお金でおいしいものを買ってみんなで食べよう!と持ち掛けました。こどもたちは大喜びです。
でもそのときに、そこにいたジェプリルが「そしてそれを台風で家とか食べ物がなくなっちゃった人に持って行こうよ」と言いました。
最初に「それがいい!」と言ったのが、ドドンです。

なんでも自分だけ、自分のもの、自分さえよければ、という感じだったドドンが、いつの間にかこんなふうに成長していたんです。
私は泣き顔を見られたくなかったので部屋に駆け込んだのを覚えています。

小さい頃は一人で写っている写真ばかりだったドドンが、大きくなってからはいつも他の子と一緒に写っています。
ロジャーの影響でサッカーに興味を持ってからは、さらに「チームプレイ」を大事にする子になっていきました。
竹音楽隊でも、一番みんなと息を合わせなければいけない、難しい「竹ベースサックス」を担当しました。
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この4月から、試験的に親戚の家に暮らし始めたドドン。
半年ほど経過を観察して、このままうまくいきそうなら、正式にHOJを「卒業」することになります。
奇しくもこのタイミングで、行方不明だったお母さんとも連絡がとれました。
数年後にはずっと夢見ていた「お母さんとの暮らし」も実現できるかもしれません。

ドドンがどんな子だったのか、どんなふうに成長してきたのかを、早く母親に語って聞かせる日が来ることを祈っています。



HOJ誕生までの物語 Vol.5

※前回に引き続き、アイダさんへのインタビューをまとめています。

私は結婚して「烏山アイダ」となり、日本で暮らすようになりました。
1986年1月、はじめて私が日本に降り立った日は、ちょうど雪でした。

いっちゃん(烏山さん)は日本の商社で働くようになっており、その関係で千葉県の行徳に住んでいました。
私もそこで一緒に暮らし、日本語学校に通い始めました。

当時のフィリピンでは「日本に行けば大金持ちになれる。日本人と結婚すれば一生安泰」とまことしやかに言われていましたが、
私が行徳で出会ったフィリピンの人たちは、決してそうとは思えない暮らしをしていました。
そんな彼らの憩いの場が、日曜に集まる教会です。
私はそんなみんなのために通訳をしたり、相談に乗ったりと、いわばソーシャルワーカーのような立場でした。
毎日とても忙しかったですが、とても充実した日々でした。
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その後、いっちゃんの台湾への駐在が決まり、私たちは台湾へ引っ越しました。
そこでは、まさかと思うほどの豪邸が私たちを待っていました。高級コンドミニアム、と言うんでしょうか。
1フロアがすっかり私たちの家で、なんと、私たち専用のエレベーターがありました。

そこでも私たちは多くのフィリピンから来た労働者たちに出会いました。
日本に来ている人たち以上に彼らをとりまく境遇は厳しく、彼らは助けを必要としていました。
お互いに助け合いたいけれど、街にひとつの教会に集まれば、不法就労の人は捕まってしまいます。
そんなわけで、私たちの家が、彼らの集会所になりました。
毎週のようにパーティーを開き、悩みを聞き、本国から神父さんを招いてミサをしたこともありました。
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私は満たされていました。豪邸で暮らし、同朋であるフィリピンのみんなに信頼され、尊敬されていたのですから。
小さなレストランを所有したりもして、趣味である料理の腕も生かすことができました。
さらに、結婚してから9年。待望のこどもを授かったのです!こんなに幸せなことがあるでしょうか。
私は、こんな暮らしがずっと続くことを信じていたのです。
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でも、ある日、突然いっちゃんが言いました。「仕事をやめた。フィリピンで困っている人のために何かしたい。」

私は目の前が真っ暗になりました。
今だって台湾で困っている人たちのために、十分な活動をしているはずなのに、どうして?
仕事をやめてしまったら、お金がなくなってしまったら、困っている人のためにだって何もできないじゃない…。
だいいち、私たちの、生まれたばかりの赤ちゃんはどうするの?

言いたいことはたくさんありましたが、あまりのショックで私は何も言えませんでした。
それこそ、それから1ヶ月間、ほとんど私は口を開きませんでした。そのくらいショックだったんです。

こうして、私たち夫婦の怒涛のような人生は、大きく動き始めました。(つづく)



ジュヴィーの物語

ジュヴィーは妹のジョリーナ、ジェリカと一緒に、2008年にHOJにやってきました。

バナイバナイという米どころとして有名な町のはずれで、ジュヴィーの家族は比較的まともな生活をしていました。
近所の人によれば、父親は高校を優秀な成績で卒業したような人だったそうです。
しかし、その父親はそのうち、アルコールにおぼれるようになり、薬物などにも手を出すようになっていきました。

日に日に横暴になっていく父親から、逃げるように母親が家を出て行ってしまいました。
当時、ジュヴィーは5歳。ジョリーナは3歳、ジェリカは2歳でした。

父親はさらにお酒におぼれるようになり、まったく働かなくなってしまいました。
収入がないので3度の食事にも事欠くようになり、
父親はジュヴィーたちに「近所の人に食べ物をわけてもらってこい」と物乞いを強要するようになりました。

当時のことを「酔っ払いが一番気前がいいのよ」と笑顔で話すジュヴィーに、ドキッとしたのが忘れられません。

父親の酒への依存はさらに度を越したものになり、ついにはこどもたちに手をあげるようになります。
ジュヴィーたちには少し大きいお兄さんもいるんですが、その子は病気のお婆さんの介護につきっきりで、
助けを求めることもできません。そこでジュヴィーは、二人の妹を連れて家出することを決意します。

人の集まるバスターミナルのある場所まで1時間くらいかけて歩き、そこで物乞いを始めました。
犬のように追い払われることがほとんどでしたが、なんとかその日の食事にありつくことはできたようです。

さすがにバスターミナルで働いている人たちが心配して、村長さんに連絡し、ジュヴィーたちは福祉局に保護されました。
父親はさらにめちゃくちゃになっていて、近所の家のテレビを盗もうとして捕まり、刑務所に入っていました。
福祉局は引き取ってくれる親戚を探しましたが、結局だれも引き取ってくれず、手続を経てHOJにやってきました。

幼い時期に母親に置き去りにされ、父親に虐待され、近所の人に疎んじられた経験からか、
入ってきた日の「何も信じられない」という表情は、幼い子とは思えない、厳しいものでした。
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それでも、HOJで安心して眠れて、3食きちんと食べられて、何よりも同じつらい経験をもった子たちと一緒に暮らし、遊ぶ中で
ジュヴィーは急速に笑顔を取り戻していきます。
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とはいえ、情緒が安定するのには時間がかかりました。
ちょっと肩がぶつかったり、自分が置いた場所に自分のサンダルがなかったりするだけで、
ジュヴィーは癇癪を起して大騒ぎになることがしょっちゅうでした。

学校に通うようになると、すぐにこの子がものすごく頭が良い子なのだということが分かりました。
英語や算数などの教科だけでなく、ダンスや絵も得意で、足もはやく、教室で一目置かれるようになっていきます。
HOJでも活躍の場が増えると共に褒められることが増え、自信がつくとともに癇癪を起こすことも減っていきました。
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そんなジュヴィーに、ある日、ひとつの知らせがやってきました。
父親が刑務所で病気になり、釈放されてすぐに死んでしまった、というのです。

それを聞いて、ジュヴィーはボロボロと泣き出しました。
どんな父親でも、やっぱりジュヴィーにとっては彼は「お父さん」だったんです。

成長するにつれ、ジュヴィーには特異な才能があることが分かってきました。それは「ストーリーを作る才能」です。
ジュヴィーにかかれば、ただの鬼ごっこが「ワニから逃げる子猫たち」の大スペクタクルになり、
ただの砂山びが「砂の王国のお姫様の宮殿」になりました。
他にも、ジュヴィーが開発した面白い遊びは枚挙にいとまがありません。本当にひょうきんな子なんです。
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ジュヴィーと遊ぶと、普通に遊ぶよりもずっと楽しいので、ジュヴィーの周りには自然とこどもたちが集まります。
言葉が通じないはずの日本から来たこどもでもそうなのですから、これはもう、本物です。
将来は学校の先生になりたいと言っていますが、天職なのではないかと思います。
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そのジュヴィーも小学校を卒業し、中学校に進むことになりました。
そしてなんと!ついに引き取ってくれるという親戚がHOJのすぐそばで見つかり、HOJを「卒業」していくことになりました。
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今でもジュヴィーは週末になるとHOJに遊びに来てくれます。
そうすると、HOJの照明が40%くらい明るくなったようになります。本当に素敵な子です。

今後もこの子の成長を見守り続けたいと思います!



HOJ誕生までの物語 Vol.4

※今回からの話は視点を変えて、アイダさんへのインタビューをまとめています

私は、サンイシドロが、今よりもずっと小さくて、不便だった時代に生まれ、育ちました。
ダバオまでの道はまだ舗装されていなかったし、電話なんて役所にしかありません。
13人兄弟の私の家は、決して豊かとはいえませんでした。
幼いころに両親を亡くし、とても優秀だった長女が私たちの母親代わりとなってくれましたが、生活は本当にいつもギリギリでした。
空をときどき見上げては、通り過ぎる飛行機を見て、私もいつか飛行機に乗ってみたいと夢見ていました。

その姉がなんと、村の市長さんの息子と結婚することになり、私たちの生活はガラリと変わりました。
私は姉のこどもたちの教育係となる代わりにダバオの私立の大学に通わせてもらえることになったんです。

その後、父親の地盤を引き継ぎ、義兄が市長になった頃、私たちの村に日本の若者が出入りしているという話を聞きました。
第二次世界大戦の直接の被害者たちがまだ生きていた時代だったので、
当時のフィリピンでは日本という国の印象は決してよくありませんでした。
漠然と、何をしにきているんだろう、あやしいな、怖いな、と思っていました。
なので、義兄の家でたまに会うことがあっても、挨拶したりコーヒーを出したりする程度で、特に近づきはしませんでした。
その中の一人が、どうやら私にご執心だ、と周りから聞かされても、その場限りのことだろうとあまり気にしていませんでした。

大学を卒業した私は、もっと自分の可能性を試してみたくなり、マニラで仕事を探すことにしました。
でも、当時は「マニラで働くなんて、きっといかがわしい商売だろう?」というイメージが強かったので、まわり中のみんなが反対しました。
でも、私はその反対を押し切ってマニラに行きました。
周りの反対を押し切って行動するなんて、まるで誰かさんみたいですね。(笑)
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なかなかいい仕事に巡り合えずに苦労しましたが、ようやく正社員として雇ってくれる会社があって、
私のマニラの暮らしは安定してきました。そんな折、ダバオで数回会った例の日本人が、
マニラのJICAのオフィスに用があるといってマニラに来るたびに、私に会いに来るようになりました。

でも、私はどうせこの人は日本に帰ったら私のことなんか忘れるに違いない、と警戒していました。
回り中にそういう話がたくさんありましたからね。
デートと呼べるかどうかわかりませんが、2人で行く場所はいつも、教会のミサだけでした。(笑)

それでも彼は日本に戻ってからも頻繁に私に電話をかけてきて、会いたいと言ってきます。
仕事があるはずなのに、週末を利用して、本当に土日にマニラまで何度も会いに来る彼と、
何度も何度も一緒に教会に行くうちに、この人はちょっと他の日本人とは違うかもしれない、と私の心は傾いていきました。

そして私たちは、1985年に結婚しました。出会ってから5年目のことでした。

「日本人と結婚すれば大金持ちになって超幸せになれる」というイメージが今以上に強い時代でした。
私も、お金目当てだったわけでは決してありませんが、漠然とそういう「成功の人生」の予感にふるえていました。

その予感は、ある意味で正しく、ある意味で全然違っていたんですけどね…。(つづく)



ミッチーの物語

ミッチーは2004年の8月にHOJに来ました。

お父さんが酒を飲んでお母さんに暴力をふるうようになり、お母さんが家出。
そしてお父さんもほどなくして愛人を作って出て行ってしまいました。
家には11歳の長女クリスティーナ、10歳の次女アンギン、9歳の長男ウィリアム、7歳の三女ミナラ、
6歳のミッチー、4歳のマディー、そして1歳のインダイが残されました。
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母方の親戚は遠く、また、貧しくて支援してくれそうもありません。
父方の親戚では父親がほぼ勘当状態で「あいつの不始末なんか知るか!」と取り付く島もありません。
生きるためにクリスティーナは朝の3時から市場で働き、野菜を町で売り歩いてお駄賃をもらい、
また、売れ残りの野菜を安く分けてもらってなんとか暮らしていました。
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半年以上たってからようやく福祉局に通報が入り、ミッチーたち7人兄弟は保護されました。
薪を買うお金もなく、戸板をはがして薪にして暮らしていたため、家は穴だらけでした。

HOJにやってきて、ミッチーたちはすぐに学校に通うようになりました。
算数が得意で、学校の成績はいつも優秀、先生たちにも一目置かれる存在となりました。
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しかし、学校は楽しいことばかりではありませんでした。
親がいないことや、先天的に障害のある指のことを囃し立てられ、
何度も学校に行くのをやめようと思ったそうです。それでも信念を持って学校に行き続けたのは、
「自分を救ってくれた新しいお父さんとお母さんを悲しませちゃいけない」との思いからでした。
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囃し立ててくるようなクラスメイトは相手にせず、ミッチーは勉強と学校の行事に力を注ぎました。
そんなミッチーにはどんどん友達が、仲間が増えていき、
とうとう誰もミッチーを馬鹿にするような子は1人もいなくなりました。
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歌にもダンスにも楽器にもスポーツにも積極的に興味を示し、持ち前の負けず嫌いで
なんでもすぐに習得するミッチーは、HOJの看板娘のような存在になっていきます。
この10年間にHOJに来た人の中で、ミッチーを覚えていない人はいないでしょう。
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ここ2年ほどは学校の行事や活動で中心的な役割を担うことが多くなり、
土日にHOJで活動するときに参加できないことが多かったんですが、
竹音楽隊では華麗なダンスも披露してくれました。
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そしてついに高校を卒業!先生たち、クラスメイトたちに祝福され、ミッチーの努力が報われた瞬間でした。
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ミッチーには夢があります。
それは、ソーシャルワーカーになって、幼いころの自分のように苦しんでいるこどもを助けることです。
できれば卒業後はHOJで働いて恩返しがしたい、とも言っています。

ミッチーの努力を知っている多くの日本の人たちが支援を約束してくれて、
夢をかなえるべく、6月からはダバオの大学の福祉学科で勉強することになりました。
その準備も兼ねて、現在はダバオの地域の福祉局で、研修がてらアルバイトをさせてもらっています。
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ミッチーの挑戦はまだまだ続きます。HOJは「卒業」しましたが、これからも見守り続けたいと思います。



HOJ誕生までの物語 Vol.3

「孤児院を作ろう」と思いたったものの、孤児院ってどんなものなのか、どうやったら作れるのか、
大学では農業を学び、協力隊後は商社で働いていた私には、見当もつきませんでした。

協力隊時代の友人たちや、神父をしている兄に相談してみましたが、
「素人がそんなことに手を出して、絶対うまくいくわけないからやめろ」
「設立資金はともかく、運営資金はどうするの?収入なしでどうやって生活するつもり?」
「悪いことは言わない、やめたほうがいいよ」
と、親身に思うこそからか、否定的な意見しかもらえませんでした。
まあ、考えてみれば当たり前ですよね。

しかし私の思いは熱くなっており、もう後戻りできないほどでした。

いろいろな人に相談しては断られるうち、そもそもなぜ、私はこんな思いを持つことになったんだろう?と思いました。
それが人に伝えられなければ、誰の協力も得られない気がしました。

協力隊でフィリピンに行って…
フィリピンの人と台湾で関わって…
フィリピンの友人が交通事故で死んでしまって…

フィリピン。そう、どうしてフィリピンなんだろう?
そもそも自分はどうして「協力隊」に参加しようと思ったのだろう?
そこに鍵があるのではないかと思いました。

私は長崎の出身で、こどもの頃から毎朝教会に連れていかれていました。
ある程度の歳になると毎朝神父さんの手伝いをするようになりました。
「毎週日曜日」じゃありません、「毎朝」です。
隠れキリシタンの末裔であるうちの一家にとって、それは起きたら歯を磨くように疑問の余地のない習慣だったんです。

しかしティーンエイジャーくらいになってくると、そういう単なる「習慣」には抵抗したくなります。
私の心にも、キリスト教、もっと言えば、そうやって毎朝集まって祈っている人たちに対しての反抗心のようなものが生まれました。
「この人たちは、毎朝集まって、祈ってるだけじゃないか。
聖書を読んでありがたがってるけど、それと全然関係のない仕事をして、普通に暮らしてるだけじゃないか」…と。

そんな時に、マザー・テレサを知りました。
インドで死にゆく人たちに寄り添う活動を始めた、あの人です。
私は「これだ」と思いました。
マザーテレサ
行動せずに、祈ってばかりいて何が愛だ。そんなのは本物じゃない。俺は本物を目指すんだ。

そう、その思いが私を駆り立てて、協力隊に赴かせたんです。
「見える行動で、見えない愛を表現する」という、HOJのモットーは、もうその時に産まれていたんです。

自分で自分の思いがはっきりすれば、その思いはさらに強いものになり、また、説得力を持ちます。
私はこの思いを神父である兄に、思い切りぶつけてみました。
私の本気を見て取った兄は、私に、長崎のはずれ、五島列島にあるシスターたちが運営している孤児院を紹介してくれました。

神父さんの紹介、ということで、私はそこで2年間の契約で雇ってもらえることになりました。
何の資格も経歴もないのに、今考えると、ものすごい特別扱いだったんだろうなと思います。

さあ、いよいよ道が開けてきました。私は意気揚々と会社に辞表を持っていきました。新しい人生の幕開けです。(つづく)