HOJ誕生までの物語 Vol.5

※前回に引き続き、アイダさんへのインタビューをまとめています。

私は結婚して「烏山アイダ」となり、日本で暮らすようになりました。
1986年1月、はじめて私が日本に降り立った日は、ちょうど雪でした。

いっちゃん(烏山さん)は日本の商社で働くようになっており、その関係で千葉県の行徳に住んでいました。
私もそこで一緒に暮らし、日本語学校に通い始めました。

当時のフィリピンでは「日本に行けば大金持ちになれる。日本人と結婚すれば一生安泰」とまことしやかに言われていましたが、
私が行徳で出会ったフィリピンの人たちは、決してそうとは思えない暮らしをしていました。
そんな彼らの憩いの場が、日曜に集まる教会です。
私はそんなみんなのために通訳をしたり、相談に乗ったりと、いわばソーシャルワーカーのような立場でした。
毎日とても忙しかったですが、とても充実した日々でした。
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その後、いっちゃんの台湾への駐在が決まり、私たちは台湾へ引っ越しました。
そこでは、まさかと思うほどの豪邸が私たちを待っていました。高級コンドミニアム、と言うんでしょうか。
1フロアがすっかり私たちの家で、なんと、私たち専用のエレベーターがありました。

そこでも私たちは多くのフィリピンから来た労働者たちに出会いました。
日本に来ている人たち以上に彼らをとりまく境遇は厳しく、彼らは助けを必要としていました。
お互いに助け合いたいけれど、街にひとつの教会に集まれば、不法就労の人は捕まってしまいます。
そんなわけで、私たちの家が、彼らの集会所になりました。
毎週のようにパーティーを開き、悩みを聞き、本国から神父さんを招いてミサをしたこともありました。
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私は満たされていました。豪邸で暮らし、同朋であるフィリピンのみんなに信頼され、尊敬されていたのですから。
小さなレストランを所有したりもして、趣味である料理の腕も生かすことができました。
さらに、結婚してから9年。待望のこどもを授かったのです!こんなに幸せなことがあるでしょうか。
私は、こんな暮らしがずっと続くことを信じていたのです。
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でも、ある日、突然いっちゃんが言いました。「仕事をやめた。フィリピンで困っている人のために何かしたい。」

私は目の前が真っ暗になりました。
今だって台湾で困っている人たちのために、十分な活動をしているはずなのに、どうして?
仕事をやめてしまったら、お金がなくなってしまったら、困っている人のためにだって何もできないじゃない…。
だいいち、私たちの、生まれたばかりの赤ちゃんはどうするの?

言いたいことはたくさんありましたが、あまりのショックで私は何も言えませんでした。
それこそ、それから1ヶ月間、ほとんど私は口を開きませんでした。そのくらいショックだったんです。

こうして、私たち夫婦の怒涛のような人生は、大きく動き始めました。(つづく)



ジュヴィーの物語

ジュヴィーは妹のジョリーナ、ジェリカと一緒に、2008年にHOJにやってきました。

バナイバナイという米どころとして有名な町のはずれで、ジュヴィーの家族は比較的まともな生活をしていました。
近所の人によれば、父親は高校を優秀な成績で卒業したような人だったそうです。
しかし、その父親はそのうち、アルコールにおぼれるようになり、薬物などにも手を出すようになっていきました。

日に日に横暴になっていく父親から、逃げるように母親が家を出て行ってしまいました。
当時、ジュヴィーは5歳。ジョリーナは3歳、ジェリカは2歳でした。

父親はさらにお酒におぼれるようになり、まったく働かなくなってしまいました。
収入がないので3度の食事にも事欠くようになり、
父親はジュヴィーたちに「近所の人に食べ物をわけてもらってこい」と物乞いを強要するようになりました。

当時のことを「酔っ払いが一番気前がいいのよ」と笑顔で話すジュヴィーに、ドキッとしたのが忘れられません。

父親の酒への依存はさらに度を越したものになり、ついにはこどもたちに手をあげるようになります。
ジュヴィーたちには少し大きいお兄さんもいるんですが、その子は病気のお婆さんの介護につきっきりで、
助けを求めることもできません。そこでジュヴィーは、二人の妹を連れて家出することを決意します。

人の集まるバスターミナルのある場所まで1時間くらいかけて歩き、そこで物乞いを始めました。
犬のように追い払われることがほとんどでしたが、なんとかその日の食事にありつくことはできたようです。

さすがにバスターミナルで働いている人たちが心配して、村長さんに連絡し、ジュヴィーたちは福祉局に保護されました。
父親はさらにめちゃくちゃになっていて、近所の家のテレビを盗もうとして捕まり、刑務所に入っていました。
福祉局は引き取ってくれる親戚を探しましたが、結局だれも引き取ってくれず、手続を経てHOJにやってきました。

幼い時期に母親に置き去りにされ、父親に虐待され、近所の人に疎んじられた経験からか、
入ってきた日の「何も信じられない」という表情は、幼い子とは思えない、厳しいものでした。
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それでも、HOJで安心して眠れて、3食きちんと食べられて、何よりも同じつらい経験をもった子たちと一緒に暮らし、遊ぶ中で
ジュヴィーは急速に笑顔を取り戻していきます。
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とはいえ、情緒が安定するのには時間がかかりました。
ちょっと肩がぶつかったり、自分が置いた場所に自分のサンダルがなかったりするだけで、
ジュヴィーは癇癪を起して大騒ぎになることがしょっちゅうでした。

学校に通うようになると、すぐにこの子がものすごく頭が良い子なのだということが分かりました。
英語や算数などの教科だけでなく、ダンスや絵も得意で、足もはやく、教室で一目置かれるようになっていきます。
HOJでも活躍の場が増えると共に褒められることが増え、自信がつくとともに癇癪を起こすことも減っていきました。
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そんなジュヴィーに、ある日、ひとつの知らせがやってきました。
父親が刑務所で病気になり、釈放されてすぐに死んでしまった、というのです。

それを聞いて、ジュヴィーはボロボロと泣き出しました。
どんな父親でも、やっぱりジュヴィーにとっては彼は「お父さん」だったんです。

成長するにつれ、ジュヴィーには特異な才能があることが分かってきました。それは「ストーリーを作る才能」です。
ジュヴィーにかかれば、ただの鬼ごっこが「ワニから逃げる子猫たち」の大スペクタクルになり、
ただの砂山びが「砂の王国のお姫様の宮殿」になりました。
他にも、ジュヴィーが開発した面白い遊びは枚挙にいとまがありません。本当にひょうきんな子なんです。
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ジュヴィーと遊ぶと、普通に遊ぶよりもずっと楽しいので、ジュヴィーの周りには自然とこどもたちが集まります。
言葉が通じないはずの日本から来たこどもでもそうなのですから、これはもう、本物です。
将来は学校の先生になりたいと言っていますが、天職なのではないかと思います。
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そのジュヴィーも小学校を卒業し、中学校に進むことになりました。
そしてなんと!ついに引き取ってくれるという親戚がHOJのすぐそばで見つかり、HOJを「卒業」していくことになりました。
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今でもジュヴィーは週末になるとHOJに遊びに来てくれます。
そうすると、HOJの照明が40%くらい明るくなったようになります。本当に素敵な子です。

今後もこの子の成長を見守り続けたいと思います!



HOJ誕生までの物語 Vol.4

※今回からの話は視点を変えて、アイダさんへのインタビューをまとめています

私は、サンイシドロが、今よりもずっと小さくて、不便だった時代に生まれ、育ちました。
ダバオまでの道はまだ舗装されていなかったし、電話なんて役所にしかありません。
13人兄弟の私の家は、決して豊かとはいえませんでした。
幼いころに両親を亡くし、とても優秀だった長女が私たちの母親代わりとなってくれましたが、生活は本当にいつもギリギリでした。
空をときどき見上げては、通り過ぎる飛行機を見て、私もいつか飛行機に乗ってみたいと夢見ていました。

その姉がなんと、村の市長さんの息子と結婚することになり、私たちの生活はガラリと変わりました。
私は姉のこどもたちの教育係となる代わりにダバオの私立の大学に通わせてもらえることになったんです。

その後、父親の地盤を引き継ぎ、義兄が市長になった頃、私たちの村に日本の若者が出入りしているという話を聞きました。
第二次世界大戦の直接の被害者たちがまだ生きていた時代だったので、
当時のフィリピンでは日本という国の印象は決してよくありませんでした。
漠然と、何をしにきているんだろう、あやしいな、怖いな、と思っていました。
なので、義兄の家でたまに会うことがあっても、挨拶したりコーヒーを出したりする程度で、特に近づきはしませんでした。
その中の一人が、どうやら私にご執心だ、と周りから聞かされても、その場限りのことだろうとあまり気にしていませんでした。

大学を卒業した私は、もっと自分の可能性を試してみたくなり、マニラで仕事を探すことにしました。
でも、当時は「マニラで働くなんて、きっといかがわしい商売だろう?」というイメージが強かったので、まわり中のみんなが反対しました。
でも、私はその反対を押し切ってマニラに行きました。
周りの反対を押し切って行動するなんて、まるで誰かさんみたいですね。(笑)
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なかなかいい仕事に巡り合えずに苦労しましたが、ようやく正社員として雇ってくれる会社があって、
私のマニラの暮らしは安定してきました。そんな折、ダバオで数回会った例の日本人が、
マニラのJICAのオフィスに用があるといってマニラに来るたびに、私に会いに来るようになりました。

でも、私はどうせこの人は日本に帰ったら私のことなんか忘れるに違いない、と警戒していました。
回り中にそういう話がたくさんありましたからね。
デートと呼べるかどうかわかりませんが、2人で行く場所はいつも、教会のミサだけでした。(笑)

それでも彼は日本に戻ってからも頻繁に私に電話をかけてきて、会いたいと言ってきます。
仕事があるはずなのに、週末を利用して、本当に土日にマニラまで何度も会いに来る彼と、
何度も何度も一緒に教会に行くうちに、この人はちょっと他の日本人とは違うかもしれない、と私の心は傾いていきました。

そして私たちは、1985年に結婚しました。出会ってから5年目のことでした。

「日本人と結婚すれば大金持ちになって超幸せになれる」というイメージが今以上に強い時代でした。
私も、お金目当てだったわけでは決してありませんが、漠然とそういう「成功の人生」の予感にふるえていました。

その予感は、ある意味で正しく、ある意味で全然違っていたんですけどね…。(つづく)



ミッチーの物語

ミッチーは2004年の8月にHOJに来ました。

お父さんが酒を飲んでお母さんに暴力をふるうようになり、お母さんが家出。
そしてお父さんもほどなくして愛人を作って出て行ってしまいました。
家には11歳の長女クリスティーナ、10歳の次女アンギン、9歳の長男ウィリアム、7歳の三女ミナラ、
6歳のミッチー、4歳のマディー、そして1歳のインダイが残されました。
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母方の親戚は遠く、また、貧しくて支援してくれそうもありません。
父方の親戚では父親がほぼ勘当状態で「あいつの不始末なんか知るか!」と取り付く島もありません。
生きるためにクリスティーナは朝の3時から市場で働き、野菜を町で売り歩いてお駄賃をもらい、
また、売れ残りの野菜を安く分けてもらってなんとか暮らしていました。
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半年以上たってからようやく福祉局に通報が入り、ミッチーたち7人兄弟は保護されました。
薪を買うお金もなく、戸板をはがして薪にして暮らしていたため、家は穴だらけでした。

HOJにやってきて、ミッチーたちはすぐに学校に通うようになりました。
算数が得意で、学校の成績はいつも優秀、先生たちにも一目置かれる存在となりました。
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しかし、学校は楽しいことばかりではありませんでした。
親がいないことや、先天的に障害のある指のことを囃し立てられ、
何度も学校に行くのをやめようと思ったそうです。それでも信念を持って学校に行き続けたのは、
「自分を救ってくれた新しいお父さんとお母さんを悲しませちゃいけない」との思いからでした。
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囃し立ててくるようなクラスメイトは相手にせず、ミッチーは勉強と学校の行事に力を注ぎました。
そんなミッチーにはどんどん友達が、仲間が増えていき、
とうとう誰もミッチーを馬鹿にするような子は1人もいなくなりました。
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歌にもダンスにも楽器にもスポーツにも積極的に興味を示し、持ち前の負けず嫌いで
なんでもすぐに習得するミッチーは、HOJの看板娘のような存在になっていきます。
この10年間にHOJに来た人の中で、ミッチーを覚えていない人はいないでしょう。
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ここ2年ほどは学校の行事や活動で中心的な役割を担うことが多くなり、
土日にHOJで活動するときに参加できないことが多かったんですが、
竹音楽隊では華麗なダンスも披露してくれました。
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そしてついに高校を卒業!先生たち、クラスメイトたちに祝福され、ミッチーの努力が報われた瞬間でした。
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ミッチーには夢があります。
それは、ソーシャルワーカーになって、幼いころの自分のように苦しんでいるこどもを助けることです。
できれば卒業後はHOJで働いて恩返しがしたい、とも言っています。

ミッチーの努力を知っている多くの日本の人たちが支援を約束してくれて、
夢をかなえるべく、6月からはダバオの大学の福祉学科で勉強することになりました。
その準備も兼ねて、現在はダバオの地域の福祉局で、研修がてらアルバイトをさせてもらっています。
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ミッチーの挑戦はまだまだ続きます。HOJは「卒業」しましたが、これからも見守り続けたいと思います。



HOJ誕生までの物語 Vol.3

「孤児院を作ろう」と思いたったものの、孤児院ってどんなものなのか、どうやったら作れるのか、
大学では農業を学び、協力隊後は商社で働いていた私には、見当もつきませんでした。

協力隊時代の友人たちや、神父をしている兄に相談してみましたが、
「素人がそんなことに手を出して、絶対うまくいくわけないからやめろ」
「設立資金はともかく、運営資金はどうするの?収入なしでどうやって生活するつもり?」
「悪いことは言わない、やめたほうがいいよ」
と、親身に思うこそからか、否定的な意見しかもらえませんでした。
まあ、考えてみれば当たり前ですよね。

しかし私の思いは熱くなっており、もう後戻りできないほどでした。

いろいろな人に相談しては断られるうち、そもそもなぜ、私はこんな思いを持つことになったんだろう?と思いました。
それが人に伝えられなければ、誰の協力も得られない気がしました。

協力隊でフィリピンに行って…
フィリピンの人と台湾で関わって…
フィリピンの友人が交通事故で死んでしまって…

フィリピン。そう、どうしてフィリピンなんだろう?
そもそも自分はどうして「協力隊」に参加しようと思ったのだろう?
そこに鍵があるのではないかと思いました。

私は長崎の出身で、こどもの頃から毎朝教会に連れていかれていました。
ある程度の歳になると毎朝神父さんの手伝いをするようになりました。
「毎週日曜日」じゃありません、「毎朝」です。
隠れキリシタンの末裔であるうちの一家にとって、それは起きたら歯を磨くように疑問の余地のない習慣だったんです。

しかしティーンエイジャーくらいになってくると、そういう単なる「習慣」には抵抗したくなります。
私の心にも、キリスト教、もっと言えば、そうやって毎朝集まって祈っている人たちに対しての反抗心のようなものが生まれました。
「この人たちは、毎朝集まって、祈ってるだけじゃないか。
聖書を読んでありがたがってるけど、それと全然関係のない仕事をして、普通に暮らしてるだけじゃないか」…と。

そんな時に、マザー・テレサを知りました。
インドで死にゆく人たちに寄り添う活動を始めた、あの人です。
私は「これだ」と思いました。
マザーテレサ
行動せずに、祈ってばかりいて何が愛だ。そんなのは本物じゃない。俺は本物を目指すんだ。

そう、その思いが私を駆り立てて、協力隊に赴かせたんです。
「見える行動で、見えない愛を表現する」という、HOJのモットーは、もうその時に産まれていたんです。

自分で自分の思いがはっきりすれば、その思いはさらに強いものになり、また、説得力を持ちます。
私はこの思いを神父である兄に、思い切りぶつけてみました。
私の本気を見て取った兄は、私に、長崎のはずれ、五島列島にあるシスターたちが運営している孤児院を紹介してくれました。

神父さんの紹介、ということで、私はそこで2年間の契約で雇ってもらえることになりました。
何の資格も経歴もないのに、今考えると、ものすごい特別扱いだったんだろうなと思います。

さあ、いよいよ道が開けてきました。私は意気揚々と会社に辞表を持っていきました。新しい人生の幕開けです。(つづく)



ジュリアンの物語

ジュリアンは6歳のときにHOJにやってきました。
シングルマザーだった母親が新しい男と暮らすようになり、
長女のジュリアンを親戚の家に預けていなくなってしまいました。
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しかしその家もこどもがたくさんいてジュリアンに愛情をそそぐ余裕はなく、

村長さんに相談したところ福祉局を紹介され、その流れでHOJに入ることになりました。

ジュリアンは少し喘息気味で、体があまり強くありませんでした。
同年代のジュヴィーやジョリーナとはすぐに仲良くなりましたが、
同じように走り回ったり泳ぎまわったりして遊ぶとすぐに熱を出してしまうので、
1人で絵を描いたり、でおままごとなどをして遊ぶことを好むようになりました。
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そんなジュリアンに転機が訪れました。下の弟2人もHOJに入ってくることになったのです。
お母さんに新たにこどもが生まれて、前の夫との間に生まれた2人のこどもを
また親戚の家に預けて行ってしまい、親戚の方がその2人をHOJに連れてきたのです。

なんとも無責任な、ひどい話ですが、ジュリアンの喜びようは予想以上でした。
兄弟で入っている子が多い中で1人でいたことはすごく寂しかったんでしょう。
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それから目に見えてジュリアンは朗らかで積極的になりました。
不思議なもので、喘息もあまり出なくなり、海や川でも駆け回って元気に遊べるようになりました。
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その後、地道な調査の結果、ついにお母さんが見つかったのでHOJに連れてきました。
その時のことを私は忘れられません。

私は正直、彼女に対して腹を立てていました。
今さらどの面さげてこどもに会いに来るんだ、と思ったのです。

ですが、私が何か言う以上に象徴的なことが起こりました。
いつもは快活なジェレミーが、お母さんが近づくと大声で泣き出したのです。
ジェレミーからすれば「知らない人」だったのでしょう。

お母さんは、罪悪感と、悲しさと、愛しさが混じったような、なんとも複雑な顔をしていました。
ジェレミーは泣き続け、お母さんのほうを振り返ろうともしません。
とても気まずい空気が漂いました。

その時、ジュリアンが立ち上がって、お母さんに抱きつきました。
その瞬間、お母さんはジュリアンを抱きしめて「ごめんね、ごめんね」と泣き出しました。
ひとしきり泣いた後にお母さんは立ち上がり、ジェレミーを抱きしめました。
今度はジェレミーは泣きませんでした。

お母さんは「ゆるされた」のです。
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ジュリアンは、こういう子です。困っている人、弱っている人、立場の低い人を決して放っておきません。
自分の感情よりも、相手の感情によりそって行動する子です。
子連れのビジターが来た時に、小さい子の相手を最後までずっとしているのは、いつもジュリアンです。
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そんなジュリアンの心根は学校の先生たちにも伝わっているようで、
学校では「優しい子」と評判で、日本の道徳にあたる、こちらの「宗教」の授業ではいつも成績がトップクラスです。

また、絵の才能が開花しつつあり、学校で絵のコンテストの代表に選ばれました。
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この3月、ついにジュリアンは小学校を卒業しました。6月からは中学生です。
持ち前のやさしさと、才能をこれからさらに伸ばしていってほしいと思います!



HOJ誕生までの物語 vol.2

台湾でのある死刑囚との出会いで、私に「何かしなければ」という想いに駆り立てられました。
ですが、まだその「何か」が私にはわかりませんでした。

そんなとき、私にひとつの訃報が届きました。
協力隊時代にフィリピンで仲良くなった親友、アマドが交通事故で亡くなったというのです…。

青年海外協力隊は「技術移転」を目的としたプロジェクトなので、
必ず現地の同じ専門性を持ったリーダー格の若者と、コンビを組んで仕事をすることになります。
その相手を「カウンターパート」と呼ぶのですが、このカウンターパートとの相性の良さが、
協力隊時代を有意義なものにするか、我慢の連続ばかりにしてしまうかの、大きな分かれ道です。

私は現地の「バゴボ族」という民族の最後の酋長の息子だという男とコンビを組むことになりました。
彼は体が大きく、バイクや馬に乗ってどんな山の中にも入っていく豪傑でしたが、
それと同時にとても繊細な心の持ち主でもありました。
お酒と音楽が好きな私たちはすぐに意気投合しました。
一緒に山々を巡り、キャベツの種を植え、村をまわっては井戸を掘りました。
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私には宿舎としてマティの役所のそばの家があてがわれたんですが、
そんな場所よりもうちに住めよ、と誘ってくれて、私は彼の家族と一緒に、電気のない山の中で暮らしました。
毎晩火を灯してはギターを弾いて一緒に歌って過ごしました。
今でも停電するたびに、あのときのことを思い出します。
彼のおかげで、私の協力隊時代は本当に充実したものになりました。

フィリピンでは長男には自分と同じ名前をつけて「Jr.」にする習慣があるんですが、
彼はなんと、長男が生まれたとき、私の名にちなんで、「サイモン・イツオ」という名をつけました。
サイモンというのは私の洗礼名です。

その彼が、若くしてあっけなく交通事故で命を落としてしまったことが、私にはショックでした。
そして、彼の幼いこどもたちのことが気にかかりました。彼には5人もこどもがいたのです。
しかも1人は、私と同じ名を持った子です。私の「何かしなければ」という想いの「何か」がこのとき決まりました。

フィリピンに戻って、彼のこどもたちを育てよう。
そうだ、孤児院をつくろう。

ハウスオブジョイが私の心の中に生まれた瞬間でした。(つづく)



リッキーの物語

リッキーは「約10歳」のときにHOJに来ました。

「約」というのは、だれも彼の本当の歳を、彼自身も含めて、知らなかったからです。
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リッキーは姉のカテリンと共に、親戚だという男性の家で育てられていました。
しかし、その家の経済事情が逼迫してくるにしたがって、「なんで私がこの子たちまで育てなきゃいけないんだ」という感じで
あまり家庭の中で大事にされなくなり、学校に通わせてもらうこともなく暮らしていたところを、福祉局が保護しました。

こういう場合、普通なら「親戚なんだからあなたが責任を持って育てなさい」ということになるのですが、
今回は違いました。男性は、常識的に考えれば「親戚」ではなかったからです。
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リッキーのお母さんをAさんとしましょう。AさんはBさんと結婚し、リッキーを生みましたが、すぐにBさんとは別れてしまいます。
そして、リッキーたちを連れてCさんと結婚し、こどもを設けました。リッキーの父親違いの妹にあたります。
しかしその後、またAさんは他の男性と暮らすようになり、リッキーたちをCさんに預けていなくなってしまいました。
その後、Cさんがリッキーたちを育てていましたが、ほどなくしてCさんは病気で亡くなってしまいます。
残されたこどもたちはCさんの弟であるDさんに引き取られました。このDさんというのが、前述の「親戚の男性」です。

CさんとAさんの間に生まれた子は、確かにDさんから見れば親戚です。
ですが、リッキーたちはDさんから見れば「亡くなったお兄さんの元妻の連れ子」です。
「親戚」の適用範囲がものすごく広いフィリピンにおいても、これは親戚とは言えません。
そんなわけで、お母さんが見つかるまで、ということでリッキーたちはHOJにやってきました。

来たばかりの頃のリッキーは、とてもシャイで、状況の変化にまごついている感じでしたが、
すぐに他の子たちと仲良くなり、少しずつそのやんちゃぶりを発揮していくようになりました。

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前に住んでいた家でも放ったらかしにされていた時期が長かったせいか、集団のルールを守ることができず、
問題を起こすこともしばしばでしたが、小さい子たちに優しく、同年代の子たちとも楽しく遊び、
ビジターに甘えることも上手なリッキーは、HOJのムードメーカーとしてその立場を固めていきました。

忘れられないのはダバオに遠足で連れていってやったときのことです。
生まれて初めての「都会」にリッキーは本当に大はしゃぎでした。
怖くてエスカレーターに乗れずに1人で遠回りして階段を上ったり、
アイスクリームを食べ過ぎて車に酔ってしまったりと珍道中でしたが、
今でも「あの遠足は楽しかった!」と言っています。

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もう一つ忘れられないエピソードは、夏休みのおこづかいの話です。
こどもたちに「夏休みの間、計画的に使うんだよ」と言って50ペソを渡したんです。
たいていの子は小さなお菓子などを買って、あとは年上の兄弟に預けて2週間くらいかけてつかっていたんですが、
なんとリッキーは、その日のうちに50ペソ全部を使って、お菓子を袋いっぱい買ったんです。
そして、驚いたことに、買ったお菓子を他の子たちに分けはじめました。私にまでくれようとしました。
「え?いっぱいあるんだからみんなに分けるに決まってるじゃん?」という感じでした。
何か、私たちが忘れてしまった大事な感覚を、リッキーは持っているような気がします。

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自分の誕生日も知らなかったリッキーのために、HOJで誕生日を作ることになりました。
いつがいいかな?と相談して、「毎月だれかが誕生日なほうが楽しいよね」ということで、他に誕生日の子がいない3月を選びました。
初めての誕生日にはこどもたちがお小遣いを出し合って、カップケーキとロウソクを買ってきて祝いました。
小さな小さなケーキに大きなロウソクが突き刺さっていて、なんとも不恰好でしたが、こんなに素敵な誕生日のケーキは他にないと思いました。

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そんなリッキーももうすぐ14歳。HOJの中では「大きい子」に入ります。
もうヤシの木に登って実を取って来ることだってできますし、薪割りの腕もあざやかなものです。
リッキーが素敵な誕生日をこれからも迎えていけるように、みなさん一緒に見守ってくださいね!

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HOJ誕生までの物語 vol.1

私がフィリピンに孤児院を作ろう、と思ったのは、台湾にいたときのことでした。

私は協力隊時代の海外生活経験を買われて就職した商社の駐在員として、台湾で6年ほど暮らしていました。
1980年代半ば、まだバブルの最後の時期でしたから、景気も良く、仕事と言えば接待ゴルフに接待飲み会。
毎日のように日本から来るお客さんとお酒を飲んで、宿舎として立派なマンションを与えられ、
見る人が見ればうらやむような生活をしていたわけです。

ですが、私はそんな暮らしに、あまり喜びを感じてはいませんでした。
そのころの私の喜びといえば、私たち夫婦を頼って相談に来てくれる、フィリピンからの出稼ぎ労働者たちとの交流でした。
会社に用意されたマンションは週末にはフィリピン人の巣窟になっていました。
悪い労働条件で働かされる彼らの慰めに、と、フィリピンの司教さんに手紙を書いて、
フィリピン人の神父さんを派遣してもらってミサを開いたりもしました。

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そんな中、ひとつの事件が起きました。フィリピン人労働者が、職場の上司を殺したというニュースです。
フィリピン人男性はすぐに捕まり、あっという間に死刑になることが決まってしまいました。

何か彼のためにできることはないか、と私は妻と一緒に考えました。
判決を覆すほどの力はありませんが、何か、彼のためにできることはないか、と。
でも、特別なことは何もできませんでした。
私たちにできたのはただ、獄中の彼を訪問する許可を得て会いに行き、話し相手になることだけでした。

でも、言葉も通じない裁判で有罪になって獄中で孤独に苦しむ彼は、
私たちに会ってフィリピンの言葉で話すことだけで、本当に喜んでくれました。
何もしてあげられなくてごめん、と言う私に、そんなことはない、本当に感謝していると言ってくれました。

私たちの交流は彼の刑が執行されるまで続きました。
そして、遺体の引き取り手がいない、ということで、私たちが引き取り、彼を埋葬する手はずを整えました。

遺体となった彼を見たときに私の中には、不思議な気持がこみあげてきました。
それは、悲しみや無力感のようなものではありません。
もちろん、そういう気持ちもありましたが、それとはまるで違う、むしろ逆の、喜びのような、達成感のような気持ちがあったんです。
それに気づいたとき、私は驚きました。この気持ちはなんだろう?なぜ私は喜んでいるのだろう?と。

そして、そのときに思ったのです。私は、これをやらなければだめだ。こういうことをやらなければだめなんだ、
この気持ちを味わうために、私は生きるしかないんだ、と。

そこから「孤児院」という発想に行きつくのには、もう少し時間がかかります。それはまた、別のお話です。(つづく)