みなさんあけましておめでとうございます!
ハウスオブジョイのニュースレター46号ができましたので、データをアップいたします。
news46
近日中に印刷が終わり、発送いたしますのでお楽しみに!
「カトリック生活」という60年以上続くキリスト教系の月刊誌が、ハウスオブジョイのことを取り上げてくれました。
記事は以下のリンクからお読みいただけます。
カトリック生活記事
2015年はHOJがさまざまなメディアで紹介された年でした。来年もがんばりたいと思います!
2015年の会計報告です。ご覧いただければ分かる通り、今年は大黒字です!(単位はペソです)
ここ数年の収支を並べてみると、明らかに今年は寄付、講演収入、IT収入が増えています。
雑誌やサイト、テレビ番組などで取り上げられて支援者層が広がったことと、
マニラにあった大きなNGOが今年で閉鎖になり、そこを支援していた多くの団体が、
次の支援先を探していてHOJにコンタクトを取ってきてくれたことが、寄付が増えた大きな要因と思われます。
やはり、HPなどできちんと活動報告、会計報告をしていることが信用につながっていくんですね。
これからも頑張ろうと思います。
みなさんの「会員費」もすごく助かってます。
会員数を増やして、より収支を安定させるべく、頑張りますね!
ロジャーは生後10か月でHOJに来ました。
隣町マティのシスターが、赤ん坊を市場で100ペソで売っている女性がいると聞いて
慌てて駆けつけて保護されたのがロジャーでした。
両親ともに病弱で、特にお母さんは重病でした。
5歳、2歳、0歳の3兄弟は栄養失調状態で、すぐに福祉局に保護され、
栄養失調の子を一時的に引き取って食事を与える施設に入れられました。
ですが施設を出ても、実家に戻ってしまったら
またすぐに栄養失調になってしまうことは明らかです。
そこで、3人はHOJに入ってくることになりました。
ロジャーはHOJに来て数か月後にひどい熱を出して寝込みました。
病院に担ぎ込まれたロジャーはアメーバ赤痢と診断されました。
適切な治療を受けたおかげですぐに元気になりましたが、
もしHOJに入る前に発病していたら、確実に命を落としていたでしょう…。
さて、そんなロジャーは、HOJで一番のちびっ子ということでみんなに愛でられて
すくすくと成長していきます。
小さな頃からひょうきんな子で、歩く前に踊り始めたという伝説の持ち主です。
2歳くらいになると早くもカメラにポーズ!すっかりロジャーの顔になってますね。
なかなか背の伸びないロジャーでしたが、運動神経は抜群に良く、
小さい頃からHOJに来るビジターとよく一緒にサッカーをしていたことも功を奏して、
小学校高学年からは学校のサッカーチームの代表に選ばれるようになりました。
小学生の大会なのに、1人だけ幼稚園児並の体格で、
にもかかわらずものすごく素早くてボールさばきのうまいロジャーは大会でも大人気で、
相手チームには「あの小さい奴をとめろ!小さい奴に3人マークつけ!」と恐れられていました。
高校に行ってもサッカーチームは続き、年齢制限で大会に出れなくなってからは、
女子サッカーチームのコーチとしても活躍していました。
そしてロジャーと言えば一番のひょうきん者。
HOJに来たばかりで表情の固い子を笑わせるのは、ロジャーの役目でした。
あの手この手で笑わせるんですが、必殺技はこの「変な顔」!
今までにいろんな「変な顔」を見てきましたが、ここまで芸術的なのは見たことがありません。(笑)
烏山さんが足の手術をして入院していた時も、
こどもたちを代表してお見舞い係になったのがロジャーでした。
両足を切断してふさぎこんでいた烏山さんを笑わせられたのは、やっぱりロジャーだったんです。
でもやっぱりロジャーと言えば、ダンスです!
物心がつく前からHOJで歓迎会や創立記念日、クリスマスパーティーなどで人前で踊り続けた結果、
ダンスをする機会の多いフィリピンという国の中でも特異なほどにダンスをして育ったロジャーは、
小学校高学年くらいになった頃には、プロ顔負けのダンサーになっていました。
学校行事などはもちろん、プロのロックバンドのPVにバックダンサーとして参加したりもしました。
そんなロジャーもついにHOJを卒業!
先日紹介したダンスプロジェクトも大成功に終わり、今年分のダバオでの家賃はバッチリです。
10月からはマンゴー加工工場で働きはじめ、まだ研修生なので給料は安めですが、
それでも地元の商店などで働くのとは雲泥の差の、きちんとした給料をもらっています。
この12月にはさっそく職場のクリスマスパーティーがあり、グループ対抗のダンス大会があるそうです。
いわば新生活の場でのロジャーのデビュー戦!うまくいくようにみなさんお祈りください!
台湾での生活を捨て、五島の孤児院で2年間の「修行」を積んだ烏山夫妻は、
1997年の春に、いよいよフィリピンに戻ってきました。
孤児院を作る場所の候補はもう決まっていました。アイダさんの地元、サンイシドロです。
サンイシドロ市では、ちょうどアイダさんのお姉さんが市長さんになったばかり。
孤児院設立の煩雑な行政手続きを考えたら、これ以上の場所とタイミングはありません。
幸いなことに、サンイシドロに着いてすぐに市長さんの紹介で、銀行を運営しているお金持ちのコンスンジさんという方が、
市長さんの家の目の前に持っていた土地を、HOJに寄付してくれることになりました。
ですが、「銀行家から土地をもらう」という形だと、あとでいろいろと税金や所有権のことで問題が起きそうなので、
「銀行から教会に寄付した土地を、教会から半永久的に借り受ける」という形にしました。
このおかげで、HOJと地元の教会には、単なる「ご近所」以上の関係が芽生えることになりました。
HOJの運営に教会をまきこみたい、という発想は、若い頃に烏山さんを突き動かすことになった
「キリスト教とは何だろう?」という疑問への、ひとつの答えだったのでしょう。
(HOJ予定地。はじめは草と木の生い茂る空き地だった。)
場所が見つかれば、つぎは建設スタッフです。これはアイダさんの地元ということもあって、
すぐに信頼できる仲間がたくさん見つかりました。今でも働いているフィデルさんは、このときからのメンバーなんですよ。
他にも、台湾で烏山さんの運転手をしていたジョジョさんも、「恩義のある烏山さんのために働きたい!」とフィリピンに戻ってきて、
スタッフになってくれました。こうして、頼りがいのある男性スタッフが見つかり、急ピッチで建物の建設が始まりました。
孤児院で最初に引き取る子たちも決まっていました。そう、事故で亡くなった親友、アマドさんのこどもたちです。
また、孤児院を作る噂はすぐに町中に知れ渡り、まだ建物も完成する前に、何人もの子が地元福祉局から紹介されてきました。
あっという間に13人のこどもが集まり、建物がないのでとりあえず市長さんの家のゲストハウスでみんなで生活しました。
この頃にHOJに植えたマンゴーの苗が、今では立派な木になって、毎年実をつけてこどもたちを喜ばせています。
1997年8月、ついに建物も完成!ここからついに、HOJの歴史のスタートです!
2014年のHOJのプロジェクト、「竹音楽隊」の演奏動画です。
まずはフィリピンを代表する民俗舞踊「バンブーダンス」の曲、「ティニクリン」です。
この曲を竹でできた楽器だけで演奏する、というのは、フィリピンでも素晴らしい試みだと絶賛されています。
こどもたちの演奏はもちろん、ロジャーとミッチーのダンスにもご注目くださいね!
そしてこどもたちが選んだ曲が映画「となりのトトロ」のテーマ曲、「さんぽ」です。
日本のDVDを見て、日本から来るビジターから教わって、こどもたちはこの曲が大好きなんです。
映画のイメージに合わせてムービーも撮ってあります。
どのシーンがどの場面をイメージしているか、考えながら見るとまた面白いですよ!
最後に、このプロジェクト自体のドキュメンタリー動画です。
山に竹を切りに行くところから始まるこの物語を、ぜひみなさん一緒にお楽しみください!
今後もHOJでは、このような特別プロジェクトを定期的に行っていく予定です。
音楽、ダンスと来たので、次は絵です!どんなプロジェクトになるか、お楽しみに!
会員の皆様には無料で公開です!ぜひご覧ください!
コウスケくんやロジャーに感想を届けたい方は、ぜひsawamura@hoj.jpまでお寄せくださいね!
2人とも褒められて伸びるタイプですのでよろしくお願いします!(笑)
レナリンは2006年、10歳のときににHOJにやってきました。
レナリンの家族はダバオの町の中でも、最も貧しいと言われるエリアのひとつ、海際の海上住宅地に住んでいました。
お母さんは何度か事実上の結婚と離婚を繰り返しており、レナリンには5人の弟、妹たちがいました。
レナリンは小学校1年生のときに交通事故に巻き込まれ、右手を失っていました。
事故を起こした人も保険などに入っているわけではないので、まともに治療費もはらってもらえず、
ひょっとすれば切断しなくてもよかったかもしれないケースだったそうです。
お母さんは不定期にお手伝いさんや洗濯の仕事をしていましたが、6人のこどもを養うにはギリギリの生活です。
なんとか4年生まで学校に通っていたレナリンを、来年度は学校に行かせられない、というくらいに生活は逼迫していました。
そんなときにようやく福祉局が動いてくれて、レナリンと、3歳と4歳の妹、弟がHOJにやってくることになりました。
その後、お母さんが多少安定した収入の得られる仕事を見つけたために、弟と妹は実家に戻りましたが、
レナリンは本人の強い意志で、HOJに残ることに決めました。
実家のある地域では、近所中の同年代のこどもが働かされているのが事実です。
そんな場所に戻ってしまったら勉強を続けられない、とレナリンは思ったのです。
11歳にしてそう思うくらいにレナリンは勉強熱心で、成績優秀でした。
はじめは腕のことで特別支援学級に入ったレナリンですが、すぐに成績優秀者のクラスに移されました。
そこでも常に上位10位以内に入り続け、HOJの中でも他の子の勉強を手伝う「家庭教師」でした。
学校で才能を開花させていったレナリンは、学校教師にあこがれるようになりました。
しかし、学校の先生の働きぶりをずっと観察したうえで、本人なりに「片腕で教師をやるのはこの町では難しい」と判断し、
こんどはソーシャルワーカーになりたいと言うようになりました。
しかしこれも、HOJのソーシャルワーカーから、ただでさえ資格を持っていても仕事を見つけるのは難しいという現実を教えられ、
「自分にもできることは何だろう?」と真剣に考えるようになりました。
そしてレナリンが選んだのが「日本語を勉強すること」です。
日本語をマスターして通訳や観光ガイドのような仕事につけば、身体的なハンディは関係ない、と考えたのです。
日本語を勉強するにはダバオの私立大学に行かなくてはいけません。普通の学校よりもずっと授業料が高いので、
夢をかなえるためには奨学生に選ばれる必要があります。
夢を持ったレナリンはそれまで以上にがんばり、高校卒業時の成績もとても優秀で学年で7位になりました!
大学の募集している奨学金システムにも受かり、2013年からミンダナオ国際大学で日本語を勉強を始めました。
1年目にして日本語能力試験5級に合格、今年は4級にも合格して、年末には3級に挑戦します。
日本語能力試験3級に受かっていれば、レナリンが想定していた「通訳」や「ガイド」の仕事も引く手あまたです。
ここはぜひともがんばってほしいところですね。
勉強だけでなく、大学の横にある小学校の生徒への家庭教師のアルバイトにも精を出しています。
大学での勉強もあと1年半。夢に向かってがんばるレナリンを、みなさん応援してくださいね!
台湾での仕事をやめた烏山さんは、アイダさんと、生まれたばかりの娘を連れて、地元である長崎に戻りました。
「孤児院をつくる」という夢を実現するために、まずは孤児院で働くことにした烏山さんは、
五島列島の中のひとつ、福江島にある奥浦慈恵院という孤児院で働くことになりました。
この孤児院は当時非常に貧しかった島民のために、1880年にフランス人のカトリック司祭が始めた施設です。
「日本が貧しかったときは外国の人が日本のこどもを助けてくれていたんだ。
だから、今度は私たちの番なんだ。私がフィリピンで孤児院を開くのは、間違っていない。」
この施設で働きながら、烏山さんはさらに自分の夢への思いを強くしていきました。
ほとんどのスタッフがシスターだったり、福祉系の学校出身である中で、
烏山さんの「元商社マン」という経歴は異質でした。
ですがそのことは逆にいい方向で作用したようです。烏山さんはこんなエピソードを語ってくれました。
「施設にいた一人のティーンエイジャーの子が、友達に借りた原付を無免許で乗り回して人身事故を起こすという
とんでもない事件が起きてしまい、シスターたちもスタッフたちも右往左往するばかりで、
事故を起こしてしまった子も自分はどうなってしまうのだろうと本当におびえてたんだけど、
こういうトラブルを解決するのは商社マン時代には慣れたものだったから、
警察やら保険ややら、もちろん事故にあった方ともきちんと連絡をとりあって、
その子が必要以上に責められることのないようにちゃんと交渉したんだよね。
そのときから、こどもたちの私に対する目が変わった気がするよ。」
もちろん大変なことばかりだったでしょうが、烏山さんなりに、「畑違いの自分だからこそできること」を模索していたのでしょう。
一方、アイダさんのほうはもっともっと大変だったようです。
台湾での豪奢な夢のような生活から、一転して、一人の友達もいない日本の田舎の島に連れて行かれたのですから無理はありません。
アイダさんは「それから私は一ヶ月間、口をきかなかったよ」と言っていました。
くみ取り式のトイレに幼い娘が落ちるんじゃないかと夜も眠れず、
家のすぐそばにお墓があったのも怖くて、エアコンもなかったのでバケツに氷を入れて扇風機の前に置いて夏の暑さをしのいだそうです。
しかしそれでもそこはさすがのアイダさん。
地元にたくさんの友達をつくり、烏山さん以上に地元に根を張っていきます。
今でもそのときにできた友達が、HOJの運営を支援しつづけてくれています。
烏山さんたちの五島での生活は2年続きました。
今では二人とも、五島の話はすごく嬉しそうに、いい思い出として語ってくれます。
さあ、いよいよ準備は整いました。フィリピンに行き、孤児院をつくるプロジェクトの始まりです!(つづく)
ドドンは2007年にHOJにやってきました。
15歳でドドンを産んだお母さんは、親戚にドドンを預けて失踪してしまい。
たらいまわしにされたドドンは、曾祖母に育てられました。
曾祖母はかなりの高齢でしたが、ドドンを育てるためにヤシの葉でホウキを作ってバスターミナルで売っていました。
でも、もちろんそんなのはたいした収入になりません。
ドドンが大きくなり、食べる量も増えてきた頃には養いきれなくなり、村長さんに相談した結果、ドドンはHOJに入ることになりました。
ドドンは曾祖母に引き取られる前にいた親戚の家で、遠い親戚の男に虐待を受けていました。
そのせいか、お手伝いなどはきちんとするんですが、非常にビクついた子で、泣き虫で、他の子と一緒に遊ぶのが苦手な子でした。
同年代の男の子がHOJにいなかったのが、さらにそれを拍車をかけていたような気もします。
反面、学校での成績はいつもよく、一緒に幼稚園に通い始めたジョアン、インダイガマイ、クリスティーナガマイと比べても、
「お勉強はできる子」という印象でした。
また、小さい頃から目鼻立ちがしっかりしていて、ビジターたちからは「きっと将来はすごいハンサムになる」と期待されていました。
成長するにつけ、確かに勉強はできるし、顔もかっこよくなっていきましたが、「一匹狼」気質はなかなか抜けません。
途中からは明らかに集団行動を嫌う感じになり、みんなでの行動ができないために、ダバオ遠足のたびに迷子になっていました。
本人的にはまったく道になんか迷っていないので「迷子」ではなく「1人行動した」だけなんですけどね。
引率する立場からしたら厄介きわまりない存在です。そんなわけで、日常生活でもスタッフに叱られることが増えていきました。
そんなドドンに2つの転機が訪れました。ひとつは、親戚の家との和解です。
ドドンを虐待していた男というのは、「遠い従姉の内縁の夫」だったんですが、その関係が切れて、いなくなったんです。
それを機に、ドドンは夏休みやクリスマス休暇に、親戚の家へ「里帰り」するようになったんです。
自分には、自分を受け入れてくれる親戚がいる、ということが、「自分だけ」だった彼の世界を溶かしていったのです。
そして、もうひとつが、自分より小さい男の子たちがHOJに次々とやってきたことです。
長いこと「男の子の中では一番下」だったのが、「おにいちゃん」になったわけです。
頼られたり、教えてやったり、適度に威張ったり、仕切ったりすることから、ドドンは「一緒に遊ぶ」楽しさを感じるようになっていきます。
そんなドドンの、忘れられないエピソードは、年末の大掃除のときのことです。
普段は掃除しない場所をきれいにしよう!と言ったら、ドドンはジルマーと一緒に、図書室の本を一冊ずつきれいにしはじめました。
すると1時間後、「コヤシン!こんなの見つけた!」と言って、1万円札を持ってきたんです。
誰かがヘソクリにしまったのを忘れたまま、HOJに寄付してしまったのでしょうか?
一万円札の価値を知っているドドンが、それを自分のものにせず、ちゃんと届けてきたことがとても嬉しくて、私はそのことを褒めちぎってから
このお金でおいしいものを買ってみんなで食べよう!と持ち掛けました。こどもたちは大喜びです。
でもそのときに、そこにいたジェプリルが「そしてそれを台風で家とか食べ物がなくなっちゃった人に持って行こうよ」と言いました。
最初に「それがいい!」と言ったのが、ドドンです。
なんでも自分だけ、自分のもの、自分さえよければ、という感じだったドドンが、いつの間にかこんなふうに成長していたんです。
私は泣き顔を見られたくなかったので部屋に駆け込んだのを覚えています。
小さい頃は一人で写っている写真ばかりだったドドンが、大きくなってからはいつも他の子と一緒に写っています。
ロジャーの影響でサッカーに興味を持ってからは、さらに「チームプレイ」を大事にする子になっていきました。
竹音楽隊でも、一番みんなと息を合わせなければいけない、難しい「竹ベースサックス」を担当しました。
この4月から、試験的に親戚の家に暮らし始めたドドン。
半年ほど経過を観察して、このままうまくいきそうなら、正式にHOJを「卒業」することになります。
奇しくもこのタイミングで、行方不明だったお母さんとも連絡がとれました。
数年後にはずっと夢見ていた「お母さんとの暮らし」も実現できるかもしれません。
ドドンがどんな子だったのか、どんなふうに成長してきたのかを、早く母親に語って聞かせる日が来ることを祈っています。