先週の日曜日に、ハウスオブジョイのこどもたちがミュージカルをやりました!
事の経緯などはブログに詳しく載っていますのでそちらをご覧ください。
そして、ブログには載せていなかった、ミュージカルのフルバージョンをこちらで公開します。
画質もブログに載せたものよりもずっといいので、こどもたちの表情が隅々まで見えるかと思います。
ぜひご覧ください!
最後、歌に熱が入りすぎて、音源とずれてしまっているのはご愛敬ということで。
こどもたちも、日本から来た若者たちも、本当によくがんばりました!
ハウスオブジョイに一番長くいる子は誰でしょう?それはローサです。
1999年に入って来て以来、ずっとハウスオブジョイで育ち、
18歳を迎えた後も今日までジュニアスタッフとして働いているからです。
ローサは知的障害のあるお母さんが何者かに妊娠させられて生まれたこどもです。
フィリピンではどんな事情であっても中絶は犯罪なので、
お母さんはまったく育てられる見込みがないままにローサを出産し、
ローサは福祉局に保護されてHOJに入って来ることとなったんです。
お母さんほど重度ではありませんが、ローサにも知的な障害があることは小さい頃から明らかでした。
この子を育てていけるのかという不安はありましたが、他の子たちの協力もあって、
ローサはHOJの中ですくすくと育っていくことになりました。
小さい子たちと一緒に幼稚園に通って無事に卒業。
こういう融通が利くところが田舎の学校のいいところです。
そして小学校では新設された特別学級にも入れてもらえました。
勉強にはちょっとついていけなくても、身体能力は高く、自分のことは自分でできるローサは、
なによりもその笑顔で先生たちにも好かれて、18歳になるまでずっとこの特別学級に通わせてもらいました。
ときどき感情を爆発させて暴れることもしばしばでしたが、それもHOJで過ごしていく中で徐々に減っていきました。
本来、18歳になればHOJは「卒業」するのがルールですが、
ローサの場合、もし実家に帰ったら、かなり高い確率でお母さんと同じ境遇に陥るだろうことが予想されました。
そこで実家の祖父母、福祉局、HOJ、本人で話し合って、そのままHOJに住み込みで働くことになりました。
同じ目線で一緒に遊んでくれるローサはこどもたちにも大人気です!
そして料理や洗濯、掃除などの日々の生活を支える裏方として大活躍してくれています。
ローサは与えられた仕事は手を抜かずにやるので、スタッフたちにも深く信用されています。
また、新しく来る長期滞在ボランティアにとって、ローサは格好の先生です。
ローサのおかげで、日々の作業とビサイヤ語を、大笑いしながら学ぶことができています。
ローサがいると、HOJは1.5倍くらい明るくなる気がします。
これからもHOJを照らす存在として輝くような笑顔を見せてほしいと思います。
来月の誕生日には念願のストレートパーマをかける予定です。どんなふうになるのか、お楽しみに!
ルベンは2013年にカティイルという町でストリートチルドレンとして保護され、HOJにやってきました。
一緒に保護された弟のレナン、ストリート仲間のノノイ、エスエスと4人でHOJに入ることになりました。
カティイルは2012年の12月に巨大台風「パブロ」によって甚大な被害を受けていました。
この子たちはその台風以前からカティイルで気ままなストリート暮らしをしていたのですが、
住んでいた町が壊滅的な打撃を受け、そこに住んでいる人たちが「それどころではない」状態になったため、
ストリートでの生活が行き詰ってしまったのです。
HOJに入ってきた時点で、ルベンのストリート生活歴はすでに3年。
自由気ままに暮らしていたルベンにとって、規律ある共同生活になじむのは大変なことでした。
共同生活の暗黙のルールが一切通じないので、他の子のものは勝手に取る、キッチンにあるものは勝手に食べる、
好き勝手な時間に出ていき、好き勝手な時間に帰ってくる…と、やりたい放題です。
しかも彼が育ったカティイルは、HOJ近辺で使われているビサイヤ語とは異なる、「マンダヤ語」を話す地域です。
ビサイヤ語がほとんど通じないルベン達には、お説教の言葉もどこ吹く風です。
このケース、さすがに受け入れは難しいんじゃないか?と思ったことも1度や2度ではありませんでした。
ですがそんなルベンも、HOJの子たちと一緒に遊んでいく中で、少しずつ適応していきました。
バスケのような「お互いに知っているルール」の遊びを媒介にして少しずつ一緒に遊べるようになり、
もともとストリートの知恵にあふれたルベンは、男の子たちの人気者になっていきました。
ビサイヤ語にもあっという間に慣れて、話も通じるようになったルベンは、ストリート時代の話をよくしてくれましたが、
台風の話は決してしませんでした。
どんな体験だったのか、興味はありましたが、本人が話したくないなら掘り返すのはやめよう、と思っていました。
するとある日、ルベンがギターで遊びながら、でたらめにギターをかき鳴らしながらこんな歌を歌いはじめました。
♪台風パブロがやってきて 家も学校も壊れちゃった
そこいらじゅうが死体だらけ 臭くて臭くてたまらない
そこいらへんに埋めました 墓に行こうにも道がない
台風パブロは怒ってる 誰も誕生日を祝ってくれないから♪
ストリートで暮らしていた彼が、台風の直後、多くの人が避難して誰もいなくなった町の中で
どんな暮らしをしていたのかが垣間見え、この子の経験してきたことの重さを改めて確認しました。
それと同時に、この歌をギターを弾きながら楽しそうに歌うルベンを見て、
音楽のすごさ、こどもの心のすごさにも改めて気づかされました。
その後、ルベンは念願の学校にも通うことになり、教会では神父さんの手伝いもするようになりました。
学校も教会も、昔は近寄るだけで追い払われる場所だったのが、今では自分の居場所になったのです。
小学校では1年生でしたが、「よくお手伝いをする」子として表彰されるほどでした。
そして、久々に実家を訪問しました。ずっと前に家出したきり帰っていなかったので、実に4年ぶりの実家です。
実家は海外のNGOの支援でできた、台風で家をなくした人たちのために作られた村に引っ越していました。
水道も電気もない村ですが、できたばかりの村は復興への希望に満ちていて、なんだかとても素敵な場所でした。
同じ間取りの家が何軒もならんだその村の中に、明らかに他の家よりもボロボロな家がありました。
他の家が少しでも生活の質を向上させようと、花を飾ったり、カレンダーを貼ったり、家の周りに砂利を撒いたりしている中、
その家は戸板や階段板がはずれてボロボロ、家の周りはぬかるんで泥まみれです。
たった1年でこんなに差が出てしまうってどういうこと?と思って中に入ると、そこにはひしめくようにこどもたちがいました。
数えてみると7人。福祉局の人の話では、この家のこどもは全部で13人(うち4人はすでに病死)とのこと。
ルベンは長男で、お母さんが14歳くらいのときに産んだ子で、育てきれずに育児放棄されていたので家出した、という事情でした。
大家族や貧困家庭はたくさん見てきましたが、ちょっとこの家庭は極端です。
福祉局と話し合い、その後3人の子(ジャンレ、マイケル、ジャンジャン)をHOJで引き取ることになりました。
HOJにすっかり慣れたかのように見えたルベンですが、この里帰りで何か思うところがあったのでしょうか。
学校に通うよりも早く働きたい、カティイルに帰りたいと言うようになりました。
そこでカティイルの福祉局とも話し合った結果、
カティイルの警察署に住み込みで、掃除や配膳、皿洗いなどの仕事をさせてもらうことになりました。
ストリート時代にさんざんお世話になっていた警察署長さんがルベンのことをよく覚えていて、
生まれ変わったように成長した姿をとても喜んでくれて実現したんです。
今もルベンはカティイルで、警察署の手伝いと、実家の手伝いをしながらたくましく暮らしています。
もうすぐ夏休みになるので、ジャンジャンたちを久々にお兄ちゃんに会いに連れて行ってやりたいと思います。
ニュースレターの47号の原稿ができました!こちらのリンクからダウンロードできますのでどうぞ!→news47
今年はとにかく大きなプロジェクトが多かったので、その報告が中心です。
オリジナルジーププロジェクト、ライオンハウスプロジェクト、ソーラー発電プロジェクト、
サンロケ小学校給食プロジェクト、ウラワ井戸掘りプロジェクト、フィリピン田舎版人生ゲームプロジェクト…。
多くの方の支援と、アイディアのおかげで、大幅に設備を整えるだけでなく、
HOJの活動の中身も充実させていけるような継続性、発展性のある企画が進んできています。
これからもこうして活動を続けていくことで、みなさんへの感謝を表明していきたいと思います。
今後ともよろしくお願いします!
クリスティーナは2004年にHOJに来ました。
酒飲みで働かない暴力的な夫に愛想をつかして母親が失踪。
あげくに父親も別に愛人を作って出て行ってしまい、家にはクリスティーナを長女とする7人の兄弟が取り残されました。
そもそも父親が親戚中から縁を切られているような状態だったため、兄弟たちを引き取ってくれる親戚はいませんでした。
当時、一番下の妹はまだ1歳…。12歳のクリスティーナが、一家の大黒柱となりました。
クリスティーナは朝の3時に起きて市場へ行き、野菜を売り歩いて駄賃をもらうことでなんとか収入を得て、兄弟たちを養おうとしました。
学校に通えるような状況ではありません。こどもたちだけで暮らしているのですから、生活には限界があります。
料理用の薪を遠くまで取りに行く術がないので床板をはがして燃やし、それでインスタントラーメンをつくって、
売れ残りの野菜を入れて食べるような毎日が続いていたそうです。
そんな暮らしが数ヶ月続き、ようやくこの状況が近くの修道院のシスターに伝わります。
状況を見たシスターはすぐに福祉局に連絡、そしてハウスオブジョイに話が来ました。
現地に駆け付けた烏山さんはその場でこの子たちを引き取ることを決定、すぐにハウスオブジョイに連れて行くことになりました。
これからの新生活に向けて精一杯のおしゃれをした兄弟たち。
まるでサイズのあっていない服が、この子たちの状況と、これからの生活への不安と期待で揺らいだ心を映しだしているように思います。
HOJにやってきて、落ち着いた生活を取り戻したクリスティーナは、自分よりも大きなお姉さんたちがいることに安心し、
こどもの表情に戻りました。
学校でも人気者になりました。、クリスティーナはやっと「こども時代」を取り戻したのです。
そんなある日、1人の男が足を引きずりながらHOJにやってきました。男は自分はクリスティーナたちの父親だと名乗りました。
失踪していた父親に出会えたのですから兄弟たちは大喜びです。
ですがそんな中、クリスティーナだけは浮かない顔でした。「今さら何をしにきたの?」と腹を立てていたのです。
しかもなんとこのとき、この父親はクリスティーナたちの「妹」にあたる子を連れて来ていたのです。
病気になって働けないからこの子も引き取ってくれ、と言って。
あまりの無神経、無責任にアイダさんが怒って、さんざん説教して追い返しましたが、
その後もこの父親はことあるごとにHOJにお金をせびりに来るようになりました。
フィリピンでは「こんな親でもこどもは親を尊敬するのか…」と驚くようなケースがよく見られるんですが、
そんな文化の中でも、さすがにクリスティーナはこの父親だけは許せないようで、父親が来るたびに部屋にこもって、顔を合わせないようにしていました。
この頃からクリスティーナは「高校を卒業したら大学に行って警官になりたい。そしてこどもを捨てるような人を逮捕したい」と言うようになりました。
そんなに勉強ができるタイプでもありませんでしたが、真面目さには定評があったので、予定通り高校も卒業。
HOJからの奨学金で大学の、警官になるためのコースに入学しました。
ですがここからクリスティーナの迷走が始まります。
授業をサボるようになり、あまり柄がいいとは言えない友達とつるむようになり、しまいには勝手に学校を辞めてダバオに行ってしまいました。
12歳から信じられないような責任を負わされ、その後はHOJの中でもずっと「いいお姉さん」を演じつづけてきたクリスティーナは、
HOJを卒業したと同時に得た「自由」に振り回されてしまったのでしょう。まあ、羽目をはずしたくなる気持ちは分からなくはありません。
大丈夫かな…と心配しながら遠くから見守っていたんですが、1年くらいでクリスティーナは「このままではいけない」と自分で思ったようで、
遠い親戚のつてをたどって仕事を紹介してもらい、それを転々としながらなんとか暮らすようになりました。
そして2年ほど働いたのちに、ヨルダンへの出稼ぎを決意します。
中東の産油国に家政婦として出稼ぎに行くのはフィリピンの田舎の「貧困」から抜け出す、数少ない道のひとつなのです。
出稼ぎで稼いだお金はもちろんフィリピンにいる兄弟たちに送金。
HOJを出て就職し、安定収入を得ているウィリアムと協力して、なんと昔住んでいた家を再建しました。
その後、いったんフィリピンに戻って来てウィリアムと同じマンゴー加工工場で働き始めましたが、
マンゴーの洗浄に使う洗剤にアレルギー反応が出てしまい、就業継続を断念、ふたたびヨルダンに行くことにしました。
今でもヨルダンで家政婦として働きながら、兄弟たちに送金を続けるクリスティーナ。
はやく妹たち、弟たちも自立して、素敵な自分の家庭を築いてほしいですね。
ドはHOJの創設期に隣町マティからやってきました。
教会の前で障害を持った子が物乞いをしている、ということで福祉局が保護したんです。
その子は幼い頃に父親から受けた折檻で背骨が曲がってしまい、身体が大きくならなくなっていました。
その上、先天的に耳が聞こえず、身振りとうなり声だけで生活していたので、近所の人たちには「犬の子」と呼ばれていました。
両親は町はずれの草むらに掘立小屋を建てて暮らしており、父親は完全なアルコール依存症。
母親も父親の暴力に耐えかねて自身も酒浸りになっており、緊急を要すると8人兄弟が保護されました。
HOJにやって来たドをさっそく病院に連れて行き、観てもらったところ、背骨はもう曲がった状態で固まっているので治療は不可能、
でも耳の方は完全に聞こえないわけではないので補聴器をつければ聞こえるようになるとの診断を受けました。
さっそく補聴器を入手してつけてみさせたときのドの表情は今でも語り草です。
目を大きく見開き、きょろきょろして、「今何が起きた?」と慌てる様は感動的でした。
それからバドンは学校に通って少しずつ言葉を習得していきました。
明瞭に話せるようにはなりませんが、もともと人の口を読むことには長けていたので、
2年もすると簡単な会話ならできるようになりました。
そしてドが13歳になった時、父親のアルコール依存は直りませんでしたが、母親が更生したということでドは実家に戻りました。
HOJも福祉局も、ドが学校に通い続けられるようなプログラムをいろいろ考えて提案したんですが、
ドはそのすべてを断り、働くことを選びました。読み書きとお金の計算はもう覚えたから、勉強はもう十分、とのことでした。
まずドは教会の前で靴磨きを始めました。もともと物乞いをしていた場所です。
はじめは靴を磨くだけでしたがすぐに修理も請け負うようになり、修理できるものも靴だけでなく、鞄、傘などと増えていきました。
ドは稼いだお金を秘密の場所に埋めて隠し、少しずつ貯めました。その場所は今でも兄弟たちも知りません。
そして貯めたお金で念願の自転車を購入。町中を周って靴修理をするようになりました。
ドが次に買ったのは小さな電卓でした。ある程度会話ができるようになったとはいえ、値段交渉などはやはりなかなか通じません。
そこでドが思いついたのが、電卓を見せて交渉するという方法でした。これほどシンプルかつ効果的な方法があるでしょうか?
こうしてドは、ドのことを知らない人ともコミュニケーションを取り、どんどん顧客を拡大していきました。
そうして貯めたお金で、ドはまた自転車を買いました。今度の自転車は荷台つきです。
ドは町中を靴修理しながら回っているときに、そこかしこに売ればお金になるペットボトルや鉄くずが落ちていることに気づいたのです。
そこで、1周目は靴修理しながら拾うものの目星をつけておき、2週目で回収して周る、という方法を思いついたのです。
こうしてビジネスを拡大したドは、またまた自転車を買いました。
今度は何?と思ったら、なんとそれを1時間いくらで近所の人に貸しだすサービスを始めました。
長くフィリピンに住んでいますが、こんなビジネスをフィリピンの田舎で見たことはありません。
この商才と根性には本当に敬服します。
稼いだお金で家に電気を引き、テレビを買い、大きくなった弟妹たちが大学や専門学校に行くことも支援し、
おかげで妹たちは海外に出稼ぎに行ったり、病院で准看護師として働けるようになりました。
(写真は准看護師になったピンピン。最初の写真の一番手前の子です)
身体の障害、重度の難聴、アルコール依存症の両親、8人の兄弟、草むらの掘立小屋暮らし。
それでもあきらめず、安易に犯罪に走ることもなく、これだけのことを成し遂げたドは、厳しい状況に生まれた人たちの希望です。
これからもそのたくましい根性で活躍してくれることでしょう!
アルソンは2003年に、弟のアルセルと一緒にHOJにやってきました。
彼ら兄弟は生まれつきほとんど目が見えませんでした。
日常生活はできますが、普通の学校では受け入れてもらえません。
HOJのそばにある村で一番大きな学校なら、視覚障碍者向けのコースがあるのですが、
アルソンたちが住んでいる山の上から毎日2時間かけて通うのはかなり難しいです。
そこで、HOJに住んで、そこから学校に通うことになったのです。
また、医者に診せたところ、この視覚障害は進行性のもので、近いうちに完全に失明するだろうと言われました。
せめて視力のあるうちに、いろいろな体験をさせて可能性を伸ばしてやりたい。
そんな想いで、スタッフたちはアルソンを引き受けました。
HOJにやってきたアルソンはすぐに音楽に興味を持ち始めました。
スティービー・ワンダーやレイ・チャールズ、ラウル・ミドンのようなミュージシャンにあこがれて、
キーボードやギターを練習し始めます。学校でも歌のコンテストなどに出て活躍するようになりました。
もうひとつ、アルソンが興味を示したのが筋肉トレーニングです。
毎日率先して薪割りをし、腹筋や腕立て伏せを欠かさないアルソンは、
ティーンエイジャーになった頃にはものすごい肉体美になっていました。
HOJの他の子たちも、アルソンを当然のように仲間に入れていました。
みんなでサッカーをしよう!と言う時にもアルソンをチームに入れて、
「アルソンがゴールを決めたら3点ね!」などと特別ルールを作り、一緒に楽しんでいました。
ひょうきんな性格で、ボソっと面白いことを言うアルソンはパーティーの席の人気者でした。
自分で作ったジョーク満載のコミックソングを歌うと、みんな大爆笑でした。
そんなアルソンも学校に通い続けた結果、中学校の卒業資格を得て、
視覚障碍者のためのマッサージ師養成講座に通い、そこでも優秀な成績を認められ、
ダバオのマッサージ店で働くことになりました。
アルソンの筋力は「力強いマッサージ」を求めるお客さんたちに大人気らしく、
今では常連のお客さんが何人もいるそうです。
実家に久々に戻って来たときにも筋力トレーニングは欠かしません。
それにしてもこの写真、いろんな意味ですごいですよね。
前に会ったときには「最近彼女ができたんだ。彼女は目が見えるから、一緒に色んなところに行けて楽しいよ」
なんて言っていました。今後、素敵な展開がないか楽しみです!
ジョネルは2000年、4歳のときにダバオからHOJにやってきました。
とても小さい子が市場でビニール袋を売っている、ということで教会のシスターたちが保護し、
福祉局を通してHOJで預かることになったのです。
ジョネルは「孤児」ではありませんでした。ちゃんとお父さんがいて、お父さんと一緒に住んでいました。
両親が分かれてしまい、シングルファザーになった父親には幼いこどもの面倒をみながら働くことができず、
生活が行き詰ってしまっていたために、市場の仕事を手伝わされていたのです。
さらに下に幼い弟と妹がいることが分かり、すぐに3人でHOJに入ることになりました。
HOJですくすくと育っていたジョネルたちですが、
ダバオの福祉局から「お父さんの経済状況が安定したので実家に帰れますよ」との通達をうけ、また父親と暮らすことになりました。
もちろん親と暮らせるならそのほうがいいに決まっていますから、ジョネルはダバオに戻りました。
ですがHOJとしてはジョネルが本当にちゃんと暮らせているのか、心配でたまりません。
数か月後に見に行ってみると、ジョネルはまた市場で、働かされていました。
着ているものもボロボロ、髪は伸び放題、サンダルは擦り切れていて、手足は傷だらけでした。
お父さんは日雇いの仕事こそしていましたが、給料をギャンブルでつくった借金の返済とお酒に費やしてしまい、
こどもをちゃんと学校に行かせるのは全然不可能な状態でした。その場で話し合い、すぐにHOJに連れて帰ることにしました。
福祉局の調査がいいかげん、というケースは、実は結構多いんです。
これ以来、HOJでは福祉局の調査報告を鵜呑みにはせず、必ずこちらでも裏を取るようにしています。
HOJに戻って来たジョネルは、すくすくとたくましい青年に成長していきました。
動植物の世話をするのが性に合っているようで、花壇の手入れや、週末の畑仕事を、よくやってくれました。
特別勉強ができるというわけでもありませんが、落第するようなこともない適度な真面目さでハイスクールも無事卒業。
卒業後は大学に通いたい?職業訓練校に行きたい?との問いに、迷うことなく「働きたい」と答えました。
そして知り合いが運営するダバオの食品加工工場に就職。
就業時間中、ほぼ立ちっぱなしでマンゴーを運んだり切ったり洗ったりする、
フィリピンののんびりした人たちからするとかなり厳しい仕事なのですが、非常にまじめな勤務態度で1年以上働き続けています。
働き始めて1ヶ月目。初めての給料をもらったジョネルがお土産にお菓子をたくさん買ってHOJを訪ねてきました。
ああ、HOJに残っている妹に会いに来てくれたんだな、立派な青年に成長したなあ、と思っていたら、ジョネルはこう言いました。
「おれ、稼げるようになったから、妹はおれが引き取るよ。」
19歳の若者です。初めて稼いだお金で買いたい物はいくらでもあったでしょう。携帯電話、自転車、時計、服、デート代…。
でも彼は、迷うことなく妹を迎えに来たのです。正直、本当に驚きました。
さらにジョネルはお父さんも呼び寄せ、念願の「家族で一緒に暮らす」生活を始めました。
いまだに日雇いで働くお父さんに代わり、工場で正社員として働くジョネルが一家の大黒柱です。
HOJのこどもたちに「理想の将来像」を見せてくれたジョネル。これからの活躍に期待したいです。
烏山さんの家のタンスの奥に眠っていた8mmビデオテープを、こちらの業者に頼んでデジタル化してもらいました。
中には1998年、ハウスオブジョイがまだできて1年目の頃の映像が入っていました。
編集したのでぜひご覧ください。とても貴重な映像です。
ビデオを撮っている烏山さんの声から、こどもたちへの愛おしさが伝わってきます。
このビデオに映っている子たちは今ではみんな成人して、立派に暮らしています。
今度この子たちがHOJに遊びに来たら、この動画を見せてやろうと思います!
ジェプリルは2005年、7歳のときにHOJにやってきました。
両親が犯罪に関与して逮捕、収監されて一緒に暮らせなくなり、何人かの兄弟は親戚の家で暮らすことになったのですが、
まだ小さかったジェプリルは「うちでは小さい子の面倒をみる余裕はない」と断られ行き場がなくなってしまいました。
そこで、日本では考えられないことですが、はじめは母親と一緒に刑務所の敷地内に住むことになりました。
フィリピンの刑務所は日本の刑務所とは全然違います。
言ってみればそこは、単に隔離された村のようなもので、敷地内に売店があったり、カラオケ屋があったりします。
もちろんそれを運営しているのは受刑者です。
模範囚や軽犯罪囚は、中での自由も結構あるらしく、携帯を持っている人も珍しくありません。
ジェプリルと同じように、親子で暮らしている人は他にもいたそうです。
とはいえ、やはりそこは刑務所です。こどもが成長するのに適した場所とはいえません。
これはさすがにまずいだろう、ということになり、ジェプリルは福祉局に保護され、HOJに来ることになったのです。
HOJにやってきたばかりの頃のジェプリルは、とてもやんちゃで、集団行動の苦手なタイプの子でした。
まあ、短い期間とはいえ、刑務所内で育っていたわけですから、無理はありません。
ですが、HOJになじむにつれ、ジェプリルはすごく「いい子」になっていきました。
「いい子」とカッコつきで書いたのは、ジェプリルのいい子さは、ちょっと他の子のいい子さとは違っていたからです。
なんというか、ものすごく「正義漢」っぽいというか、「融通が利かない」感じで、
周りの同世代の男の子たちとの間でいさかいを起こすことも多かったです。
これはおそらく、親の無実を信じて待っているジェプリルの、願掛けのようなものだったのだと思います。
そんなジェプリルは、こどもたち同士でルールを決め合ってなんとなくやる遊びよりも、
バスケやサッカーといった、ちゃんとルールの決まった遊びを好むようになっていきます。
そういう遊びをやっていく中で、少しずつ周りの子たちとも仲良くなり、HOJの中に居場所ができていきました。
また、もの作りに非常に熱心に、丁寧に取り組む子で、粘土やレゴ、ペーパークラフトなどが大好きでした。
ジェプリルのエピソードで、ひとつ、絶対に忘れられないものがあります。
ジェプリルの腕には、刑務所時代に入れられた、小さな小さなタトゥーがありました。
日本ほどではありませんが、やはりフィリピンでもタトゥーは「アウトロー」のイメージです。
「いい子」のジェプリルはそれを人に見られることを嫌がっており、
写真にうつるときなどは、いつもその部分が隠れるようにしていました。
そんなとき、日本のロックバンド「宇宙戦隊ノイズ」がやってきました。
彼らは「宇宙からやってきた正義の味方!」というコンセプトのバンドなのですが、
口だけではなく、実際にライブやグッズ販売の収益を、毎年奨学金としてHOJに持ってきてくれている、本物のヒーローです。
そのメンバーの1人、ドラマーのYAMATOさんは、腕中にタトゥーが入っていました。
「腕中にタトゥーを入れた正義の味方がいる!」
これは、ジェプリルにとっては、衝撃的な出会いでした。
2人はお互いのタトゥーを見せ合い、「仲間だな!」と喜び合っていました。
ジェプリルはそれ以来、自分のタトゥーを隠さなくなりました。
HOJで暮らして7年目。ついにジェプリルの待ちわびていた日がやってきました。そう、両親が釈放されたのです。
しかも、有罪が確定しての「刑期満了」ではなく「証拠不十分」での無罪放免です。
ずっと両親の無実を信じていたジェプリルの夢が叶ったのです。
ちょうどその年に小学校を卒業することになっていたジェプリルは、
学校を卒業するタイミングでHOJも卒業することになりました。
ジェプリルの旅立ちは、喜びにあふれたものでした。
今、ジェプリルは両親と暮らしながらハイスクールに通っています。
しっかり勉強して、将来はエンジニアになりたいそうです。
もの作りの隙だったジェプリルにはぴったりの将来像ですね。
ときどきHOJにも遊びに来て、こどもたちと遊んでくれています。
あの融通の利かなかったジェプリルが、やんちゃな子たちと遊んでいる姿を見て、
ああ、立派に成長したなあ、と思います。
これからもジェプリルの成長と活躍を、見守っていきたいと思います!